フィクションと歴史の共存 変化する時代の価値観

米コラムニスト チャールズ・クラウトハマー

意図的にゆがめられた事実

Charles Krauthammer  【ワシントン】ヘンリー8世の宮廷を描いたマン・ブッカー賞受賞の歴史小説「ウルフ・ホール」。トマス・クロムウェルとトマス・モアの対立をかつてないほどに劇的に描いたこの小説が連続テレビドラマになり、PBSで放映された。気が狂いそうなほどひどい。

 気が狂いそうなほどに歴史が意図的にゆがめられている。しかし、ドラマは構想から製作まで非常によくできていて、そんなことには誰も気付かない。陰気で、人の心をつかみ、皮肉に満ちた想像の産物を前にすれば、歴史的に間違っていようと、金を払ってでも見てみようという気になる。

 ウルフ・ホールの修正主義は大したものだ。ヘンリー8世の大法官であり、腐敗し、道徳心がなく、ずる賢いクロムウェルに対し、従来、清廉とされてきたトマス・モアのイメージをひっくり返してしまった。これは、フィクションであり、反論の余地がある。著者のヒラリー・マンテル氏は、元カトリック信者で、「カトリック教会は尊敬すべき人々の集まりではない」と言うほどの反カトリックだ。クロムウェルの名誉を回復し、モアをおとしめることを狙ったものだ。とりわけ、劇作家ロバート・ボルト氏が「すべての季節の男」で描いた聖人としてのモアとは、まるで違う人物として描かれている。

 どちらが本当の姿なのか。完全なものはないけれども、、異教徒を火刑に処する残虐な偽善者のように描いたウルフ・ホールのモアの描写は、うそとは言わないまでも、挑発的だ。確かに、モアの祈りはやりすぎだ。故フランシス・ジョージ枢機卿はこの点に関して、2012年の聖職者会議で警告を発した。モアにも欠点はある。すべての季節の男だったが、この時代の男でもあった。ローマと宗教改革の間の残忍な闘争のこの時代には、異教徒を探し出し、残虐な方法で迫害することは普通だった。

 実際にクロムウェルが権力を手にした時、モアのプロテスタント迫害以上に執拗(しつよう)に、徹底してカトリック信者を迫害した。そのため、クロムウェルが非常に繊細な情感豊かな人物として描かれているウルフ・ホールの描写は事実とは考えにくい。残虐でずる賢く、醜悪なほどに権力と富を追い求め、王の気まぐれと希望に応えようとした。

 それにもかかわらず近年、クロムウェルへの評価は高まっている。マーク・ライランス監督はクロムウェルを見事に表現し、共感を呼んだ。監督は、寡黙で質素な、魅力的で人間的な人物として描いた。現代の観衆の感性もこれに同調した。世俗的な現代にあっては、喉をかき切る狂信者は嫌われ者であり、過度の信仰心はさげすまれ、冷酷であってもプラグマティックで現代的である方が支持される傾向がある。

 ヘンリー8世の宗教改革の主導者としてのクロムウェルは、そのような人物だった。ローマ・カトリック教会をつぶし、修道院を略奪し、聖職者らを王に服従させることで国教化した。これは、現代の反教権主義にかなったものだ。しかし、クロムウェルが誕生にひと役買った中央集権国家が、その後何世紀にもわたって、合理的で、目的を持った、思想が管理され、すべてが管理される国家の台頭の基礎となったことを思い出すべきだ。

 批評家らは、クロムウェルとヘンリー8世を原始全体主義と呼び、その後起きる出来事の責任を問うが、これは恐らく公正ではない。しかし、その種をまいたのは確かだ。ある種の不寛容を抑える一方で、異端者らを、神ではなく国家の主権を損ねるものとして再定義したにすぎない。

 しかし、ウルフ・ホールは、政治的ばかりか、文学的にも疑問を抱かせる。このように歴史をねじ曲げた作品が、素晴らしい文学として評価を受けると、こう疑問を持たざるを得なくなる。この歴史小説をどう受け入れるべきなのか。

 さまざまな回答が出ているが、実際には当たらずといえども遠からずというところだ。これが最近の出来事ならば、正確であることが求められる。オリバー・ストーン監督の偏執狂的で、中傷的な「JFK」も50年間たてば無害になる。だが、悪臭が消えるにはそれだけ時間がかかる。一方で、シェークスピアが、シーザー、マクベス、ヘンリーの中で記録との食い違いがあっても誰も気にはしない。しかも、実際に違っている。

 時間が伝説へと変える。それが大変なことだとはもう誰も思わない。歴史上のシーザーがいて、シェークスピアのシーザーがあるのだ。両者は併存する。

 映画評論家のスタンリー・カウフマン氏も、デービッド・リーン監督の「アラビアのロレンス」と実際のロレンスについて同じことを言っている。ギャップがあるのだ。個別の現実としてそれぞれを受け入れねばならない。ロレンスの自伝「知恵の七柱」は素晴らしい作品だが、歴史的事実としての信頼性は低い。

 モアとクロムウェルの別バージョンということだ。併存させればいい。ウルフ・ホールは感動的な本だ。だが、「すべての季節の男」を拒否することもできない。どちらのモアも、クロムウェルも受け入れる。つまるところ、何世紀もの間、光は波であり、粒子であるという考え方が受け入れられてきた。物理学がこの気が狂いそうな事実を認めるのならば、文学や歴史ができないという理由はない。