泰山のように重い人生


韓国紙セゲイルボ・コラム「説往説来」

 「和尚も孤独を感じる時がありますか」。崔仁浩(チェイノ)(作家)が尋ね、法頂(ポプチョン)(僧、いずれも故人)が答える。「もちろん。孤独を知らなければ人生が鈍くなるよ。しかし、孤独にとらわれてしまうと沈滞する。孤独は脇腹をかすめて通る風のようなものだね」

 崔仁浩がもう一歩進み寄る。「孤独をなだめる方法はありません。自ら人間が孤独な存在であることを受け入れてこそ、成熟できます」

 ついに法頂は死について語る。「我々は皆、いつかは死ぬという事実を受け入れなければなりません。(同じように)我々は孤独であるしかない存在だということを受け入れなければなりません」(『法頂と崔仁浩の山荘対談 花びらが落ちても花は枯れない』余白出版社)

 中国の司馬遷は宮刑を受け去勢された。数年間にわたって書いてきた『史記』の原稿は没収され燃やされた。1日に数百回自殺を考えた。獣にも劣る身になって、人生にどんな意味があるのか。司馬遷は眠れぬ日々を重ねる長い苦悩の末に答えを見つけた。人間はいつかは死ぬのだという事実を。孤独であるしかない存在だということを受け入れてからだった。彼は、こんな言葉を残す。

 「人固有一死 或重於泰山 或軽於鴻毛」。人は生まれて誰でも一度死ぬが、泰山のように重い死もあれば、羽毛のように軽い死もあるという意味だ。司馬遷は泰山より重い死を選び、そのためいっそう熱烈に生きた。記憶をたどって史記の執筆を再開、とうとう紀元前91年に中国の代表的な歴史書の史記を完成し、翌年この世を去った。司馬遷の死こそ泰山のように重い人生だ。

 ある女子高生が麻浦大橋のたもとで泣いている。“いじめ”に苦しんで自殺を決心したのだ。誰もいない。雨が降って周りの色調は暗く、沈んでいる。どれだけ泣いていたのか、目が赤くなって桃のように腫れている。通報を受けて出動した20代の女性警察官が静かに近づいて女子高生と膝を突き合わせ、手を握り締めて胸に引き寄せ言葉を掛けた。「つらかったでしょう…、家に帰ろう」。女子高生は肩を震わせてすすり泣いている。「お姉さん、私、とても苦しくて…、でも死ぬのは嫌なの」。この場面を撮った昨日の朝刊の一枚の写真と一行の記事が感動を呼んだ。

 法頂のように、司馬遷のように、孤独を運命として受け入れればどうだろうか。せっかくこの世に生を受けたのだから、羽毛のように軽く死ぬことはできない。泰山のように重い人生を生きるべきだ。

(4月25日付)

※記事は本紙の編集方針とは別であり、韓国の論調として紹介するものです。