イランの核認めるオバマ氏
イスラエル首相は反発
核交渉めぐり米議会で演説
【ワシントン】イスラエルのネタニヤフ首相の米議会での演説は、二つの点で注目に値する。エステル女王は2500年前に最初のスタンディングオベーションを受けた。オバマ大統領は、ネタニヤフ氏を事前に阻止しようと手を尽くしたが、イラン核交渉に関して、ネタニヤフ氏が自身の考えを表明するのを止めることはできなかった。
ネタニヤフ氏を止めるどころか、やまない中傷合戦の中で、この問題は国際的な注目を浴びるようになり、さまざまな人々が関心を持つようになった。オバマ氏は、イラン核合意を既成事実として大々的に公表することはできず、まず自身のイラン外交を正当化しなければならなくなっている。
オバマ氏は6年間、イランのイスラム法学者らに手を差し伸べてきた。キッシンジャーのような華麗な手法で、ハメネイ師のイランを米国の事実上の同盟国にして、中東を安定化させようとしてきた。だが、その苦労のかいもなく、イランは攻撃性を強め、イラク、シリア、レバノン、ガザ、イエメンへの関与を強めている。臆面もなくウラン濃縮で世界に挑んでいる。
オバマ氏はロシアにも同様の対応をし、プーチン氏に新デタントを提示した。これは「リセット」と呼ばれたが、プーチン氏は、国内の反対勢力を攻撃し、悪辣な反米プロパガンダキャンペーンを開始し、ウクライナを破壊し、冷戦後の欧州を根底から揺さぶることで、これに応えた。
しかしブルボン家のようにオバマ氏は何も学んでいない。イランの過激なイスラム主義政権は、善意で接し、正式な合意を交わせば、安定化に貢献する力になるとずっと信じている。これは、オバマ氏が、イランのスンニ派版である「イスラム国」の真の姿に目を向けようとしないことに似ている。イラン政府やイスラム国のような組織の人々は、本気ではないのだとオバマ氏は考えているのだ。
ネタニヤフ氏が、米イラン交渉を強く批判しているのはそのためだ。特に、反発しているのはサンセット法(時限立法)の内容だ。約10年で合意は失効する。制裁は解除され、イランは、無制限の能力を持つ無制限の数の遠心分離機で、無制限にウランを濃縮できるようになる。ウォール・ストリート・ジャーナル紙のブレット・スティーブンス氏が指摘しているように、こんなことは民主主義国家である韓国にさえ認めていない。
ネタニヤフ氏は具体的な対案を提示した。サンセット法だ。しかし、イランが態度を改め、周辺地域への干渉をやめ、世界のテロへの支援を止めることが条件だ。
ネタニヤフ氏が公表した提案によってこのような修正ができれば、「イスラエルと近隣(アラブ)諸国には受け入れにくいかもしれないが、互いの存続を文字通り可能にする」合意を形成することが可能になる。
オバマ氏はこれに対し「首相は、いかなる実現可能な代案も提示していない」と不満を表明した。だが、サンセット法を条件付きにし、核施設を縮小することはできる。イランが拒否すれば、その時は、議会が求めているように制裁を強化し、原油価格の下落とともにイラン政府に大きな打撃を与えることができる。
それがうまくいかなかった場合はどうすればいいだろう。ここからが、ネタニヤフ氏の提案の重要な点だ。つまり、イスラエルは単独で行動する用意がある。この宣言は、大喝采で迎えられた。大きな支持が得られたことの証拠だ。
それは重要な瞬間だった。ネタニヤフ氏は米国にイランと戦争させたがっているという中傷が一部で出回っていたため、この点は特に重要だ。これは、チャールズ・リンドバーグ氏が1941年9月11日に行った非難と同じくらい悪意に満ちている。リンドバーグ氏は、「この国を戦争に追いやろうとしている三つの重要なグループがある。英国、ユダヤ、ルーズベルト政権だ」と主張した。
イスラエルは70年近い歴史の中で、イスラエルのために米国に戦うよう求めたことは一度もない。1948年に、65万人のユダヤ人が4000万人のアラブ人と対抗した時も、1967年にイスラエルがアラブ3カ国に囲まれ、圧力を受けていたときも、1973年にイスラエルが消滅の瀬戸際にあった時も、3度のガザでの戦争と2度のレバノンでの戦争でもそうだった。
これを、米国が代わりになって戦い、多くの米国人の命が失われた国々と比較してみてほしい。クウェート、イラク、アフガニスタン、ソマリア、ベトナム、韓国、フランスをはじめとする全西欧諸国のために米国は戦争をした。
合意を変更し、制裁を強化し、イスラエルに自由にやらせるべきだ。ネタニヤフ氏は、明確で、大胆で、感動的な演説の中で現状とは違う道を提示した。融和に抵抗することを訴えた点ではチャーチルに似ている。だがこれは、1940年代のチャーチルではなく、1930年代のチャーチルだ。荒野の預言者だ。堂々とし、力強くありながら、ネタニヤフ氏の演説が大きな感動を呼んだのはそのためだ。だが、チャーチルの叫びは無視された。
(3月5日)