王の最期
韓国紙セゲイルボ・コラム「説往説来」
朝鮮の高宗(当時、大韓帝国皇帝)は1907年7月20日に退位した。オランダのハーグで開催される第2回万国平和会議で乙巳勒約(=第2次日韓協約)の不当性を暴露し列強の協力を得ようとした最後の試みも失敗した。伊藤博文は面前で嘲弄した。「なかなか粋なことをやられましたな。これからはもっと公然とやられたらどうですか」。臣下の李完用、宋秉”たちが争うように乗り出した。「日本の皇帝閣下に退位で処罰を待つべきです」。終わりだ。
1637年1月30日だった。朝鮮王の仁祖は明け方に南漢山城を出た。ハーン(清の太宗ホンタイジ)は三田渡の9層の壇上で待っていた。壇を飾る黄色の帳と日傘が強風ではためいた。王は3度跪(ひざまず)き9度頭を地にこすりつけた(三跪九叩頭の礼)。ハーンの命令が下った。日の暮れる頃、王が都城(漢城)に向かうため松坡の渡しで船に乗ると、捕虜となった婦女子たちが泣き叫ぶ。
百済の最後の王は悲運の王だ。義慈王は三千官女の話によって淫蕩な君主という烙印(らくいん)を押されている。在位20年余りの間、新羅と十数回も戦争を行った。文化財庁が一昨日公開した公州公山城の発掘遺物もはっきりと物語る。「義慈王の最期は降伏でなく抗戦だった」と。
長い歴史の中で、誰かの最期は全て意味があるはずだ。王たちの最期は、その誰もが卑屈でなく毅然(きぜん)としている。朝鮮亡国の王、高宗は退位の12年後にシッケを飲んだ後に死んだ。日本は脳溢血(いっけつ)だと発表したが、市中に暗殺説が出回った。民は大挙して徳寿宮に集まった。高宗の死が3・1独立運動の起爆剤となったのは、民衆の信頼があったためだ。仁祖も民を絶望に陥れはしたが、国は守り通した。義慈王は660年7月、臣下たちに裏切られた。公山城に新羅と唐の連合軍が進入すると、刀を持って首を刺した。唐は義慈王を中国に連れて行き、王は4カ月後に首の傷が悪化し、異郷の地に葬られた。
我々の歴史はかくの如(ごと)しだ。中国と日本に数えきれないほど嘲弄された。今も変わっていない。(9月25日付)
※記事は本紙の編集方針とは別であり、韓国の論調として紹介するものです。