出生率「1・57ショック」、「独身女性王国到来」と朝日
「『生涯出産』最低の1・57人」
1990(平成2)年の各紙1面に、この統計数字が躍った。前年の89(同元)年は出生率1・57となり、昭和41年の丙午(ひのえうま)時を0・01下回り史上最低の出生率を記録したことを伝えた。後に言う「1・57ショック」だ。出生率低下の顕在化は、一般国民にも大きな衝撃だった。
平成に入り、景気の先行きが不透明になってきて、経済のバブル期には、誰も見ようともしなかった数字が目の前にはっきり立ち現れてきた。
それでも「1・57ショック」関連で、朝日新聞は社会面に「時代は『独身女性王国』」の見出しを付け、「適齢期の結婚にはこだわらず、仕事をしたい…こんな若い女性像が浮かび上がってくる」(同年6月10日付)と報じた。少子化の現実を直視せず、結婚にとらわれないシングル志向が、時代のトレンドであるかのように誤導する、的外れの内容だ。
採用・昇級・昇進などで男女とも平等に扱う「男女雇用機会均等法」が施行されたのは86年。その後、97年に一部改正され、女性保護のために設けられていた時間外や休日労働、深夜業務などの規制が撤廃された。記事の見出しは多分に情緒的だ。
「男女を問わず、日本人にとって『家庭よりも会社の方が居心地がいい』は真実らしいですね。その証拠に専業主婦を離れて働きに出た女達はみんな会社が好きになる。彼女達の言う『家にいたって何にもすることがないから』は、働き蜂になってしまった会社人間の男達とおなじセリフです」(橋本治著『男になるのだ』ごま書房)とこの間の女性たちの気分を活写している。
「1・57ショック」で、政府はようやく少子化対策に乗り出した。「健やかに子どもを生み育てる環境づくりに関する関係省庁連絡会議」の設置(90〈平成2〉年8月)や、「ウェルカムベビーキャンペーン」(92〈平成4〉年4月)がそれ。さらに94(平成6)年12月には文部、厚生、労働、建設の4大臣合意により「今後の子育て支援のための施策の基本的方向について」いわゆる「エンゼルプラン」が策定された。
しかし、この「エンゼルプラン」は、女性の社会進出などの変化に対応するための子育て支援が、施策の眼目。直接、出生を促すという施策ははばかられ、結局、有効な少子化対策を打ち出せずに終わった。90年代半ばになっても、出生率は1・57以上に回復するどころか漸減していった。
「少子化」という言葉が初めて出たのは、「平成4年度国民生活白書」(92年11月刊行)。また「高齢化」は国際連合の報告書が65歳以上を高齢者と定義し、当時の欧米先進国の比率を基準に、総人口の7%以上を「高齢化した」人口と呼んだことに由来する。
「少子高齢化」は政府の造語で、メディアが借用した。正確な定義なしに使われ、少子化よりも高齢化による人口増大や時代の雰囲気を伝える言葉として使われた。
(人口減少問題取材班)











