朝日のサンガー女史礼賛
産児制限が既定路線に
わが国の女性が一生涯で平均何人の子供を産むかの指標は「合計特殊出生率」(以下出生率)と呼ばれる。人口の増減の大きな指標の一つが出生率で、終戦直後1947~49年の「第1次ベビーブーム」時は4・3を超えていた。1組の夫婦に子供が4人以上いることが当たり前だった。
ところが第1次ベビーブームは、わずか3年間で突如として終わる。日本弱体化を進める連合国軍総司令部(GHQ)が陰に陽に人口抑制を画策。日本政府はやむなく「産児制限」の方向を打ち出し、優生保護法が施行された。
このため出生率は1950年以降急激に低下、ほぼ2・1前後で推移し、年間出生数は戦後70年間で3分の1に落ち込んだ。どう見ても少子化の進み方が速過ぎる。
「産児制限」を既定路線として旗を振ったのが大手新聞社。特に朝日新聞は、米国の戦前戦後を通じての女性社会運動家で、1914年、産児制限を提唱、その推進運動を始めた無神論者で社会主義者のサンガー女史を持ち上げ、わが国の産児制限の運動を勢いづかせた。
サンガー女史が1954(昭和29年来日の際、朝日新聞4月15日付夕刊はその話題を大きく取り上げた。「サンガー夫人の来日を機会に受胎調節による家族計画ということが再び真剣に考えられています」と前振りし、日本産児調節連盟委員長との懇談を載せている。
その中で「妻が産制(注・産児制限のこと)を心がけても夫が協力しないという問題があるのですが」という問いに、サンガー女史は「アメリカでは全国に五百カ所のクリニック(相談所)があって、ここで映画やパンフレットによる結婚教育や性教育を広くおこなって成果をあげています。こうしたことを日本では、どうやっていくかを考えてはどうでしょうか」と米国の産制に目を向かせた。
また同記事の関連で、産児制限運動を進める当時の社会党の国会議員、加藤シヅエ氏を「“日本のサンガー夫人”」として、その推進法などを聞いている。それに対し加藤氏は「助産婦は出産を扱えば一回三千円からの収入になるのに、受胎調節を指導しても一回百円から三百円くらいしか収入がないのです。」「助産婦が一カ月扱った件数によって、いくらと国や県から助成金を出してやって仕事を喜んでするようになる」と話している。
当時のマスコミ、特に新聞の庶民に対する影響力は、今日の比ではない。
避妊具普及のために保健婦や助産婦が全国を駆け回り、1949年の優生保護法改正により人工妊娠中絶も急増。堕胎条件に「経済的理由」が加わったため、1950年代半ばには年間100万件以上が行われた。妊娠件数の3分の1を占めたとも言われる。
一方、平均寿命は延び人口は増え続けた。第1次ベビーブーム終了期には総人口は8000万人だったが、その8年後の1956年には9000万人を突破した。
このころの「厚生白書」では、出生率の急減ではなく「過剰人口」への対応を政策課題として取り上げた。また当時の人口問題審議会も「急増はおさまったものの経済成長に比べると人口には過剰感」としている。人口推移に対する、政治家や官僚、マスコミの楽観的な見通しが今日、大きな仇(あだ)となった。
(人口減少問題取材班)






