憲法改正、平和欲せば戦争に備えよ

憲法改正 私はこう考える

元駐チリ大使 色摩力夫氏(上)

 安倍晋三首相の強い意向を受けて、憲法改正の焦点は従来の一般論的な議論でなく、個別的、具体的な改正条文づくりに移ってきた。改憲論議の焦点である9条などの主要論点について、各界の有識者に意見を聞く。
(聞き手=政治部・武田滋樹、亀井玲那)

自民党が憲法改正の具体的な条文づくりに着手した。

色摩力夫氏

 しかま・りきを 横浜市生まれ。昭和20年、陸軍予科士官学校入学も終戦。29年、東大卒後、外務省入省。ホンジュラス、コロンビア、チリ大使を歴任。浜松大学教授を経て、現在、国家基本問題研究所客員研究員。著書多数。新刊に『日本の死活問題~国際法・国連・軍隊の真実~』(グッドブックス)。

 憲法改正というが、明治憲法(大日本帝国憲法)も57年間1回も改正しなかった。それから連合国軍の占領中に起草されたいわゆる「マッカーサー憲法」(現行憲法)も71年以上、一字一句変えていない。そんな国はこの世の中にない。何か具合が悪ければ直すのが世界の常識だ。いったん制定すればそれを金科玉条として重視するのは結構だが、「こだわる」のは話が別で評価できない。

憲法9条があるから日本は戦後、平和でいられたという護憲派の主張をどう考えるか。

 そういう議論に遭うたびに言うのは、平和とはいったい何かということだ。何かと何かの間に紛争もなく調和も取れていることであって、独りで平和というのはナンセンスだ。

 イギリスの戦略学者コリン・グレイは「平和と秩序は天然自然の産物ではない。それは、誰かによって組織され、維持される必要がある」と言っている。しかし、多数の主権国家の合議体でしかない国連のような形式的な国際制度が平和をもたらしてくれるわけでもない。わが国が関係諸国と共に国際社会の中でつくり出すべきものだ。

 ところが、護憲派の議論は、戦争反対の軸があるだけでもう平和国家だと勝手に思い込んでいる。しかし、これは国際社会の常識に反する。ローマ帝国時代の格言に「Si vis pacem, para bellum」というものがある。「平和が欲しければ戦争に備えよ」という意味だ。これに言い尽くされている。戦争を大真面目に考えなければ平和もおぼつかないということだ。

護憲派はまた、日本国憲法は世界に先駆けて絶対的な平和主義を唱えた画期的な憲法だと主張している。

 絶対的な平和主義が、現行憲法が無条件に平和の希望を一方的に宣言したことを指すのであれば、賛成できない。国際社会は一国一国が孤立しているわけではなく、ある意味のネットワークの中にいる。国内のことは別として、国際関係ではどんな強国でも一国で物事を決めることはできない。必ず相手がいて、その相手にも複雑怪奇ないろいろな種類のものがある。従って、単純素朴な発想では到底生きていられないのがこの世界だ。

野党第1党・立憲民主党は先の衆院選で「立憲主義に反する、安保法制を前提とした憲法9条の改悪に反対」と公約した。集団的自衛権の限定的な行使を認めた安保法制をめぐる混乱をどう見るか。

 憲法に明示的な規定がないことを問題とするのは、それなりの意味がある。従って、この安保法制をめぐる混乱は、今や決着をつける必要がある。

 集団的自衛権と個別的自衛権は別ものだと思っている人が多いが、国際社会では歴史的に自衛権は集団だろうが単独のものだろうが、全て自衛権と言っていた。

論外の集団的自衛権否定

 本来、国際法における自衛権は、国内法における正当防衛とパラレルなものだ。つまり、各文明国の刑法には必ず正当防衛という概念があり、日本の刑法にも「急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は、罰しない(36条)」と書いている。国内法上、自分または他人が命の危険に当たる場合は正当防衛という権利を行使できるので、人を傷つけても犯罪にならない。それと同じように、国際法では、自国および他国が危機に瀕(ひん)した場合に自力救済をする権利というのが自衛権だった。個別的と集団的の区別は、1945年4月から6月の「国連憲章」作成の際に便宜的に採用したものだ。

便宜的にとはどういうことか。

中南米諸国には昔から団結してたびたび地域的な機関をつくってきた歴史があり、国連をつくる前にいち早く相互援助体制の組織をつくっていた。そのリーダーが後にコロンビア大統領になる外交官のアルベルト・リェラス・カマルゴだが、彼はアメリカなどから提出された国連憲章の草案を見て文句をつけた。これでは地域的な独自の集団安全保障の機関を禁じることになる。そこで挿入させたのが、「この憲章のいかなる規定も…個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない」(51条)という文言だ。

 日本人の多くは自衛権を個別的と集団的の両方に機械的に分けて、分けたから別者だろうと勝手に思い込んで、個別的自衛権は良いが集団的自衛権は違憲だという議論をするようになった。しかし、こういう議論は国際社会では一切通用しない。

立憲民主党には、9条に個別的自衛権のみ行使できると明記すべきだという主張もあるが。

 それは、自国だけ守ればよいとして、他国は救いませんよということだ。政策論として論外で、国際社会もあっけに取られるだろう。

 もし集団的自衛権を全部否定すれば、第2次大戦後の国際社会を構成する安全保障の条約機構などは全て違法になり、日米安保条約も成立しないから、国防は全部自分でやらなければいけないことになる。