「生命礼賛」の風潮への疑問

加藤 隆名寄市立大学教授 加藤 隆

物欲的価値のみを重視
大いなるものへの畏れなし

 生きてこそなんぼという価値観、生命尊重主義、若さこそ人間の輝きというような「生命礼賛」の風潮が社会の隅々にみなぎっている。教育界はここ20年「生きる力」の育成こそ教育の根幹であると誰もが口にし、TVコマーシャルはアンチエイジングを啓蒙(けいもう)する食品やら化粧品やらを宣伝して中高年の心を掴(つか)んでいる。社会では、中高生ほどの子どもたちが中央でも地方でもアイドルと銘打って人間の価値は若さにこそありと言わんばかりに歌って踊ってパフォーマンスを繰り広げている。そして、大人たちは羨望(せんぼう)の眼差(まなざ)しを彼女たちに向けている。いずれにしても、世は「生命礼賛」に満ち満ちている。

 さて、長き歴史の中で日本という国は連綿として「生命礼賛」を重んずる社会だったのだろうか。答えは否であろう。否であるならば、「生命礼賛」に対峙(たいじ)する如何(いか)なる世界観を抱いて生きてきた民族だったのだろう。あるいは、どこの時点から、どのような理由があって「生命礼賛」に変容してしまったのだろう。このことについて、二つの面から論じてみたい。

 一つは、日本人の平均寿命の変遷である。歴史研究者によると、江戸時代中期から後期にかけての平均寿命は30歳代だったという。であればこそ、元服が15歳前後というのも合点がいく。明治時代でようやく40歳ほど。統計が出てくる大正10~14年で42歳、昭和10~11年では46歳となっている。ようやく日本人の平均寿命が50歳を超えたのは、戦後の1947年のことである。つまり、現在のような世界一の長寿というのはごくごく最近の出来事であって、戦前までの幾千年の時間を生きてきた日本人は30歳代40歳代で亡くなることが日常だったのである。そして、大よそ想像できることだが、江戸や明治期までは女性は多産であり乳幼児は多死だった。そのような社会であればこそ、市井の人々は合言葉のように口にしたのである。「7歳までは神のうち」と。

 このように、つい2世代か3世代前までの日本人は、「生命礼賛」では生きていなかった。それとは真逆の、言わば「死の日常性」「死者と共に暮らす」という感覚で生きていたに違いない。一例だが、北海道のある過疎の村の葬送の手記を読んだことがある。若い教員だった彼は、結核に蝕(むしば)まれ5年生で亡くなった教え子を棺(ひつぎ)に納め、火葬場もなかったこともあり身内や教員と共に2キロ担いで原野で荼毘(だび)に付したという。60年前の出来事である。

 あるいは、今もなお我々の心の琴線に触れる平家物語の冒頭も「死の日常性」を示している。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし」。ここには仏教思想が深く佇(たたず)んでいる。この世は夢まぼろしであり、変わらざる仏の世界にこそ心致さねばならないことを教えている気がする。まさに、生命礼賛に対置する世界観がここにはある。

 生命礼賛主義の社会で考えさせられる二つ目のことは、物欲的な価値にしか目が行っていない貧困さである。そこには、戦後、理想高く掲げられた人間尊重の精神が低次元の生物的人間主義に退化した姿だけが残り、世界とか絶対者と正対する中でこそ形成されるべき個人が自我やエゴの次元で語られている。そこには、神秘の感覚とか、大いなるものへの畏れの感覚はない。そして、すべては損得で勘定できるビジネスが繁栄することになるのだ。かつて、内村鑑三は「近代産業文明によって神聖であるべき宗教や医療さえもすべてビジネスになってしまった」と嘆いたが、我々の眼前はまさにその光景が広がっているのではないだろうか。古来、日本仏教の中心地として命懸けで信仰を守り続けてきた京都の寺社仏閣は、今や押し寄せる観光客の拝観料を主たる生業(なりわい)にしている。海外では、精子バンクや卵子バンクという形で神秘なる誕生の物語が売買の論理で取引されている。そのような場所にはビジネスはあっても、神秘や大いなるものへの畏れは存在しないのではないだろうか。

 ところで、生命礼賛主義の社会の功罪を考える上で示唆的な著作がある。内村鑑三が明治30年に著した名著『後世への最大遺物』である。彼は言う。

 「すなわち、私に五十年の命をくれたこの美しい地球、この美しい国、この楽しい社会、この我々を育ててくれた山、河、これらに私が何も遺さずには死んでしまいたくない、との希望が起ってくる。…私がどれほどこの地球を愛し、どれだけこの世界を愛し、どれだけ私の同胞を思ったかという記念物をこの世に置いて往きたいのである、すなわち英語でいうMementoメメントを残したいのである」

 我々は死の向こうの故郷を目指す旅人ではないだろうか。そうであれば、その故郷こそ根拠地であることを深く自覚し、その視点から生を眺めて何か良きものをこの世に残すという態度こそ死に甲斐(がい)ある人生ではないだろうか。「メメント モリ」(死を忘れることなかれ)は中世の人々の合言葉だったという。「生命礼賛」時代を生きる我々にも心すべき警告ではないだろうか。

(かとう・たかし)