脆弱で危ういヒラリー陣営
常軌を逸した選挙戦
陳腐な夫ビル氏の応援演説
「生涯で出会った最高の変革者だ」-ビル・クリントン氏は民主党全国大会でこう語り、自身の妻を支持した。バーニー・サンダース氏は政治改革を訴えて出馬し、ドナルド・トランプ氏は当選すれば、ワシントンで「テーブルをひっくり返す」(ニュート・ギングリッチ氏)と言われたことを考えれば、「変革者」と言われてもそれほどインパクトはない。
だがこれこそが、クリントン陣営の根底にある問題なのだ。どういうことかというと、そもそもヒラリー・クリントン氏はなぜ出馬したのかということだ。
1979年のテッド・ケネディ氏のような名家の出の候補者らと同様、実はヒラリー氏自身もそれを知らない。ヒラリー氏が大統領になろうとしているのは、それがはしごの次のステップだからだ。そしてこれが最後のステップとなる。
ビル・クリントン氏なら、つまらないものを重要に見せることも、もっともらしいヒラリーイズムをつくり出すこともできた。だが、クリーブランドではしなかった。ギングリッチ氏はクリーブランドで、トランプ氏の突飛な発言を、ポピュリズムにとって一貫したテーマのようにしてしまった。ビル・クリントン氏はリベラル派が熱心に取り組んできた数多くの社会活動を羅列した。これは、ヒラリー氏の人間味を強調しようとしたためだと私は思っている。
これだけ羅列すれば、どれかは本当のヒラリー氏を捉えているのかもしれない。しかし、ビル・クリントン氏の本当の能力はここでは発揮されていない。クリント・イーストウッド氏なら、誰も座っていない椅子に向かって話し掛けるのだろうが、ビル・クリントン氏の話を聞くと、これらすべてが事実なのかと聞きたくなるはずだ。
演説の結論はこうだった。「ヒラリーを選ぶべき理由は、地球上で最も偉大な国で、私たちは常に未来に向かっているからだ」。あまりに陳腐だ。
トランプ氏の指名受諾演説は、暗く、陰鬱だと強く非難された。しかし、誇張はあるもののフィッシュタウンの考え方に似ている。社会科学者チャールズ・マレー氏が2012年の研究論文「カミング・アパート」で統計をもとに作り出した、空想上の労働者階級の町だ。グローバリゼーションと経済的変革に取り残された人々が経済的、社会的、精神的に分断されていく様子を時系列で描いた。その結果として生じた不安や自暴自棄になる気持ちをうまく捉えたことが、学位のない白人層の間のトランプ氏への支持率がクリントン氏を39ポイントも上回っている理由だ。
トランプ氏の解決方法は、「仕事を盗んだ」といって外国人を襲うことだ。しかし、製造業の雇用が減少したのは貿易が一つの要因であり、もっと重要で大きな要因は、情報経済の出現で教育、情報、さまざまな技能がこの分野で必要となったことだ。工場労働は第三世界のライバルに負けているが、ロボットで失われた雇用の方がはるかに大きい。
生産性を高めることを否定することは難しいが、狡猾(こうかつ)な外国人を拒否することは容易だ。
いずれの場合にも、ヒラリー氏への反対意見は出なかった。ヒラリー氏が言えることがあるとすれば、機会を拡大し、天井を打ち破ることだろう。しかし、50年前の激しかった少数派に対する差別は急速に消えている。現在の人権問題の焦点といえば、トランスジェンダーのトイレ問題だ。これに困惑したフィッシュタウンの住人が「おれたちはどうなるんだ」と聞いたとしても驚くことはない。炭鉱労働者に、ヒラリー氏が炭鉱を閉鎖し、職を奪うと言ったことで、白人労働者のヒラリー氏への反発は強まった。
国外での混乱について民主党は、知らぬ存ぜぬを決め込んでいる。フィラデルフィアでの最初の夜、61人が演説した。誰一人として、「イスラム国」に触れず、テロという言葉すら口にしなかった。その後言及はあったものの、少なく、どっち付かずで、前向きなものはなかった。民主党は何が言いたいのか。ヒラリー氏の切り札は経験だ。しかし、国務長官として残したものと言えば、リビアやシリアでの政策の失敗、ロシアとのリセット外交の失敗、イラク撤退後の「イスラム国」の台頭などだ。
ヒラリー氏は大会後半で盛り返した。サンダース氏の反乱はしぼみ、オバマ大統領のヒラリー氏支持演説は、オバマ氏にしてはいいものだった。しかし、共和党大会後、トランプ氏への支持は10ポイント上昇し、わずかにヒラリー氏をリードした。ヒラリー氏も党大会後、支持が高まることを期待している。
ヒラリー氏は依然、民主党の選挙人団では優位に立っている。しかし、外部要因、内部からの暴露に対しては非常に脆弱(ぜいじゃく)だ。新たに大規模テロが起きたり、電子メール爆弾が落ちたりすれば、すべてが一変する。
今回の選挙戦は常軌を逸している。直線的な予測は通用しない。ヒラリー氏が生涯を懸けて追い掛けてきたはしごの最上部に至る道は、コイントスと変わらないくらい危うい。
(7月29日)