「広島におけるオバマ」の後に

櫻田 淳東洋学園大学教授 櫻田 淳

理想主義の価値を示す

矮小化された現実主義に対抗

 バラク・H・オバマ(米国大統領)の広島訪問は、日米関係160年の歴史に残る意義を持つものになった。米国紙『ワシントン・ポスト』は、「広島におけるオバマ」を「第二次世界大戦の敵同士が緊密な同盟国になった象徴」と評した。

 実際、各種世論調査の結果に拠れば、「広島におけるオバマ」にポジティブな評価を与えた層の値は、『共同通信』調査では98%、『日本経済新聞』調査では92%と出ている。こうした数字は、民主主義体制下では「ありえない」ものであるけれども、その「ありえない」数字が現実に出ている。

 オバマの広島訪問の1週間前、筆者は、『産経新聞』に寄せた原稿の中で次のように書いた。「オバマ大統領の広島訪問は、『核のない世界』の実現よりも、日米両国の戦後『和解』の確定に対する寄与にこそ、その意義が期待されるべきものであろう」。

 広島平和公園での献花、「広島スピーチ」の披露、被爆二老紳士との邂逅といった「広島におけるオバマ」の風景は、その一つ一つが日米両国の戦後「和解」の道程を確認し、確定させるものであった。

 昔日、高坂正堯(国際政治学者)は、「理想主義に溢れたケネディ時代の米国が好きだ」という趣旨のことを書いた。それは世上、「現実主義者」と呼ばれた高坂の言葉だけに余計に印象深いものである。1960年代、ジョン・F・ケネディ政権期の米国が後世にも忘れ難い印象を残しているのは、その「理想主義の輝き」に因る。その「米国の理想主義の輝き」を体現するものが、「松明はアメリカの新しい世代に渡された」と語ったケネディの大統領就任演説であろうし、歴史に名を刻むマーティン・L・キングの「私には夢がある」演説であろう。

 「広島におけるオバマ」の風景に日本の人々が共感を覚えた所以は、「広島スピーチ」の披露を含むオバマの姿勢に対して、ケネディやキングを髣髴させる「米国の理想主義の輝き」を観たからという側面があるのであろうと解される。実際、オバマが政治家として衣鉢を継ごうとしたのがケネディでありキングであろうとは、彼の言動の端々から如実に伝わるのである。

 兎角、この数年、ウラジーミル・プーチンのロシアにせよ習近平の中国にせよ、クリミアや南シナ海で出現させていたのは、「自分の利益になればよいのだ…」という趣旨の「矮小化された現実主義」の思考が露骨に実践される光景であった。それは、周辺諸国に辟易した感情を植え付けるものであった。

 そして、この「矮小化された現実主義」の思考は、米国大統領選挙共和党予備選挙でドナルド・トランプの候補指名が確実になった情勢に示唆されるように、米国国内でも勢いを増している。トランプの従来の言動からは、「理念の共和国」を率いようとする立場に凡そ似つかわしくない没価値性が濃厚に漂っている。

 それ故にこそ、オバマの披露したような「米国の理想主義の輝き」は、鮮烈な印象を残したのであろう。無論、オバマが「広島スピーチ」で再び打ち出した「核のない世界」構想とは、遠大な目標なのであって、それが本当に実現すると素朴に考えない方が賢明であろう。

 実際、前に触れた『日本経済新聞』世論調査でも、「オバマ大統領の広島訪問は、核兵器のない世界につながると期待できますか、できませんか」という問いに対して、「期待できない」と答えた層は、 42%に上る。日本の人々の大勢は、「広島におけるオバマ」をポジティブに評価しているとはいえ、その半数近くは、「核なき世界」構想の実現性を額面通り受け止めているわけではないのである。オバマの執政下、彼の熱意にもかかわらず、世界の核軍縮は停滞したという厳然たる事実は残るのである。

 しかし、オバマの「広島スピーチ」は、「米国の理想主義の輝き」を示すことによって、現下の「矮小化された現実主義」の思考が跋扈する趨勢に抗しようとしたのだと解すれば、その意義は深まる。今、再び眼が向けられるべきは、国際政治における「理念」や「理想」の価値に違いない。

 昔日、日本の平和主義者と称する人々は、「現実主義者は、理想や理念を語らない」と一方的に決めつけた議論を展開したものであるけれども、現実主義者と目される人々の中にも、没価値的な「矮小化された現実主義」の思考に走る向きがあるのである。

 その意味では、「花より団子」の俗諺は、人間の真実を一面しか表してはいない。「花(理念)か団子(実利)か」ではなく、「花も団子も」こそが、人間の真実を表す。「広島におけるオバマ」の後、確認されるべきは、そうした「花」の価値や力である。(敬称略)

(さくらだ・じゅん)