ルーズベルトとユダヤ難民

佐藤 唯行獨協大学教授 佐藤 唯行

米労組が受け入れ反対

恐慌と戦時下の現実主義者

 今年はフランクリン・ルーズベルト没後70年にあたる節目の年だ。未曾有の危機、大恐慌と第2次大戦に立ち向かい、見事、乗り切った米大統領(在任1933~45)だ。一方、ユダヤ難民問題への対処では評価はかんばしくない。「ナチス・ドイツが欧州ユダヤ人の3分の2を殺戮(さつりく)している間、彼はそれを冷淡に傍観していた」という批判もあるくらいだ。果たして真相はどうなのか。まずは33年1月に発足する政権1期目からみてみよう。

 同年4月、ナチスは突如、独ユダヤ人を公職から追放する法律を制定した。驚愕(きょうがく)した在米ユダヤ社会指導部はルーズベルトと会見し、独ユダヤ人の出国に便宜を与えるべく、ビザ取得条件の緩和を求めたのだ。これが可能となれば34年中頃までに数十万人の独ユダヤ人の米入国が実現するはずだった。横槍を入れたのは米労組だ。労組は民主党ルーズベルト政権にとり、ユダヤ社会より重要な支持基盤だった。当時、1100万人にも達した米国内の失業者問題に苦慮していた労組は、国内失業者のライバルとなる新たな難民受け入れに猛反対したのだ。

 大恐慌からの脱却を目指すルーズベルトが推進したニューディール改革は広範な国民的支持を必要としていた。労組と並び、その重要な一翼を担っていたのが南部白人だ。南北戦争の敗戦国、南部では「リンカーンの党、共和党」への敵愾(てきがい)心は根強く、人々は民主党を支持していたからだ。それ故、ルーズベルトは南部白人の間に根強かった移民排斥感情、反ユダヤ主義にも配慮せねばならなかったわけだ。南部白人をニューディール連合から離反させぬためにも、ユダヤ難民の受け入れを認めるわけにはいかなかったのだ。ルーズベルトの改革は迅速かつ効果的だった。就任半年で工業生産、株価は随分回復していった。それ故、在米ユダヤ人にとっても、独ユダヤ人の救援を先のばしにしているという不満はあるにせよ、ルーズベルト政権を応援せねばという気持ちは強かったのである。また後年、強力となるユダヤ・ロビーも当時は「張り子の虎」にすぎず、難民救援を求め、同政権と対決する力量など持ち合わせていなかったのである。

 36年の再選大勝と米経済の持続的回復はユダヤ難民の受け入れを阻む前述の抵抗勢力からルーズベルトを少しばかり解放した。そこで37年、彼の政権はビザ取得条件を緩和し、独難民(大半はユダヤ人)1万895人を受け入れた。この人数は米移民法が定めたドイツからの国別割りあて枠上限の半分にすぎなかった。米労組と南部白人への配慮はまだまだ必要だったわけだ。この時期、ルーズベルトがあげたより重要な功績は中南米の対米従属国に働きかけ、ユダヤ難民を受け入れさせた点にある。これにより、4万人がかの地に移住し、命を永らえたのである。

 けれど、39年9月に勃発した第2次大戦はユダヤ難民救援に携わる機会を再びルーズベルトから奪ってしまったのだ。彼の最優先課題は米国の安全保障、軍備増強、対欧外交となり、難民に対処する余力など無くなってしまったからだ。就中(なかんずく)、中立法改定に反対する米国内の孤立主義者たちの抵抗を切り崩す作業は困難を極めた。孤立主義者の中には南部白人も多く、彼らを刺激せぬためにも「ユダヤ難民救援」を持ち出すことは憚(はばか)られたのである。

 追い打ちをかけたのが41年末、米国の第2次大戦参戦だ。これにより国家安全保障上の理由から、ユダヤ難民の米国受け入れは一層困難となったのである。ユダヤ難民といえど、敵国ドイツ出身であれば、その中にナチスのスパイが紛れ込んでいるやもしれぬという理由からだ。そうした中、ルーズベルトが命じたユダヤ難民救援策の中で、唯一みるべき成果をあげたのが戦時難民委員会の設立だ。反ユダヤ的体質を持った米国務省などに難民救援をまかせていてはだめだというモーゲンソー財務長官(ユダヤ系閣僚)の進言をくみとり、ルーズベルトが44年1月から活動を開始させた米政府機関だ。スウェーデン等、欧州の中立国に支部を開設し、大戦末期、欧州でのユダヤ難民救援事業にあたらせたのだ。

 国境検問所の役人を賄賂で買収したり、大量の偽造パスポートを発行し難民に配るなど、超法規的手段を駆使することで4万8000人の難民の命を救ったと評価されている。

 さて、以上みてきたようにルーズベルトは多くの米国人がユダヤ人に偏見を抱いている事実を知っていたし、大恐慌とその後の戦争の時代に外国で抑圧された人々のために米国民が犠牲を払うことに抵抗を感じていたことも知っていた。こうした国内抵抗勢力を彼が強引に退けようとすれば、彼は政権を維持できず、従って世界制覇を目論むナチスと対決し、これを3年5カ月で打倒することはできなかったであろう。

 結果、ユダヤ人絶滅化は更に進み、犠牲者は600万人ではすまなかったかもしれない。冒頭で紹介した「冷淡な傍観者」というのは不当に厳しすぎる評価といえまいか。困難な状況下、なしうることを行おうとした現実主義者として評価できるのではないだろうか。

(さとう・ただゆき)