憲法改正は普通に行うべし
適切に対応する諸外国
日本での矛盾の放置は重大
従来わが国は国家の当然のこととして自衛権を保有しており、その延長上に存在する集団的自衛権も保持しているが、その行使は日本国憲法第9条により禁止されていると言われてきた。広く認められている権利を「自ら放棄する」のは個々の自由であろうが、正当な権利を行使できないとするのは矛盾ではないか。
しかもそれを、内閣総理大臣の指揮下にあるはずの「内閣法制局」が決定するというのは不思議なことだ。集団的自衛権の拘束を外すのは憲法改正に相当するとの解釈はありうるし、まず憲法の条文を改正すべきだと進言することは行政府の一機関として容認されることである。しかし、議会や最高裁の判断を越えて政府の政策を妨害するのは明らかに越権行為である。
それでは原点に返って、憲法改正を考えてみよう。
共産党や社民党は、憲法は行政を縛るものであるから基本的に変更してはならない、と考えているようであるが、憲法は英語でconstitutionという通り、国家の骨格を定めるものである。したがって、憲法には納税などのように国民に義務を課している条文もある。ヨーロッパの大陸諸国では一般に「基本法」と呼ばれていて、普通の法律よりも改正手続きが難しくなっている。
ところがこのように厳しい手続きが規定されている「硬性」のドイツ憲法は西ドイツ建国以来ほとんど国会の全会一致で何十回となく改正されているのである。
法治国であるからには憲法は絶対に守らなければならない。だが、国民生活も国際情勢もかなりの速さで進展している。基本法がそれに後れたままでは行政も適切な対応ができない。憲法改正ができなければ、政権担当者は条文を拡大解釈して乗り切ろうとするだろう。そうなれば歯止めが利かなくなるから、多くの国では与野党ともに必要な憲法改正に同意する。
それに加えてドイツ法系の国々には「憲法裁判所」という使いやすい機関がある。条文であれ実態であれ、憲法違反と思われるものをここに持ち込めば、短時日で審査の結果が公表される。そこで違憲と表明されればすぐに国会は憲法改正に取り掛かる。
これに対して日本を含むアメリカ法系の国は通常の訴訟審理の過程で、憲法違反と認められる条項があれば、それが判決に書かれる。これを「裁判所の違憲審査制」と名付けている。私は大学で英米法を専攻したが、それでもこの方式は専門家以外の日本人にはわかりにくい。
例えば、自衛隊は憲法違反だ、という訴えを起こすことはできない。「自衛隊によって自分の農地が荒らされたが、これはもともと違憲団体の行為である」という形の訴訟になる。しかしながら、裁判所としても自衛隊そのものが憲法に違反しているかどうかは判定に苦しむ。そのために判決ではそこには触れないで、その自衛隊の行為が損害賠償に値するかどうかに絞られる。最近各地の弁護士が集団で、選挙における1票の格差について提訴して、違憲ないし違憲状態の判決を獲得したが、これも実際には具体的な損害を挙げて違憲に持ち込んだものである。ただこのような場合、アメリカの最高裁は、立法権の裁量の範囲として、違憲と決めつけないことが多い。
ここでは残りの紙面でアメリカの憲法改正の考え方を説明したい。アメリカは憲法の原文を残したままで修正条文を付加する。有名な禁酒法では修正第18条で制定し、修正第21条で第18条を廃止した。
面白いのは常に立法の趣旨を尊重することである。アメリカは1865年に奴隷制を廃止したので、黒人に選挙権を与えることになったが、アメリカはすでに独立宣言で「人間は平等」と明示しており、憲法でも第4条で州民の市民権を保障しているから、本来黒人にも政治的投票の権利があるはずである。
だが、「コンスティチューション・ファーザーズ」(憲法制定者)の認識では黒人奴隷は「人間」ではなかったのだから、憲法修正作業が必要だということになった。奴隷解放を推進した人たちは、この機会に婦人参政権の獲得にも全力を注いだ。その結果成立した1868年の修正第15条は人種と肌の色による差別を排除することを定めたが、ここでも連邦議会の多数派は女性を市民とはみなしていなかった。そこで改めて1919年に修正第19条で性差別を撤廃した。
わが国では現在第9条以上に明白な憲法違反がある。第89条は、公の支配に属しない教育等の事業に公金を支出してはならない、としているが、国は日本私立学校振興・共済事業団を迂回して私学助成をしている。ある国会議員は憲法違反の事実を認めながら、「たくさんの学生が助かっているのだからいいじゃないの」と言った。目的がよければ憲法をわざわざ改正するまでもない、というのが日本国民大多数の「良識」だとすれば重大だ。
(おおくら・ゆうのすけ)