白々しい金正恩氏「新年の辞」
羨むものなし」は大うそ
食糧不足にあえぐ北朝鮮人民
北朝鮮問題を研究する者にとって、最高権力者が毎年1月1日に発表する「新年の辞」の分析は欠かすことのできない作業である。「新年の辞」とは、最高権力者が前年度の事業総括と新年度の事業方針を述べたものである。今年も金正恩朝鮮労働党委員長が肉声で「新年の辞」を述べたが、2013年以来、5度目である。所要時間は27分ほどで字数にすると朝鮮語で約1万字に相当する。金日成主席は肉声で読み上げたが、父の金正日総書記は肉声ではなく、3紙合同社説として掲載し、自らの肉声で人民に訴えることはなかった。金正恩の「新年の辞」の演説の内容はともかく、演説そのものはなかなか堂に入っていた。
それもそのはず、前年度の総括でいきなり金正恩は「16年はわが党と祖国の歴史に特筆すべき革命的慶事の年、偉大な転換の年であった」と総括したのである。これは自らの指導体制が確立したことを内外に誇示する発言で、36年ぶりに開催された朝鮮労働党大会で「朝鮮革命の万代の礎が築かれた」と評価した。さらに、「先端武力装備の開発が活性化し、大陸間弾道ロケット試験発射準備が最終段階に入った」と指摘し、「国防分野における輝かしい成果は、朝鮮人民に大きな民族的誇りと鼓舞的力を与え、帝国主義者と反動勢力を恥ずべき破滅の道に追い込み、共和国の戦略的地位を一段と高めた」と強調した。北朝鮮によるミサイル発射実験や核実験の実施は、決して「朝鮮人民に大きな民族的誇りを与えたり、鼓舞的力を与えたりすることはなかった」し、それどころか、海外や国内からの政府高官などの相次ぐ逃亡が話題となった。
金正恩は新年度の課題として、国家経済発展5カ年戦略の遂行に総力を集中すべきである、と強調した。それは「自力自強の偉大な原動力」によって遂行されるというが、この耳慣れない「自力自強の威力」とは、「科学技術の威力であり、科学技術を重視し、優先させるところに5カ年戦略遂行の近道がある」という。その科学技術部門であるが、「原料と燃料、設備の国産化に重点を置き、工場、企業所の現代化と生産の正常化で提起される科学技術上の問題を解決することに力を注ぐべきである」と説明しているが、果たしてこのような科学技術の水準(威力)で、「国の経済全般をより高い段階に引き上げる」ことは可能であろうか。
北朝鮮の産業発展に欠かせないのは豊富で良質の電力である。金正恩は「電力工業部門では、発電設備と構造物の補修を入念に行い、技術改造を推し進めて電力生産計画を必ず遂行しなければならない。国家統合電力管理システムを着実に運営し、時差交代生産の手配を綿密に行って、電力の生産と消費の均衡を図り、多様な電力資源を開発して新たな発電能力を大々的に造成すべきである」と述べているが、毎年繰り返される、陳腐な内容である。中朝国境踏査では必ずと言っていいほどに確認しているのが、1941年9月に完成した水豊ダムであるが、このダムも76年が経過した。重力式コンクリートダムの耐用年数も限界に近づいているのではないだろうか。
美辞麗句を並べただけの「新年の辞」を北朝鮮の人民は「一言一句」間違えないように暗記して、職場や学校の同僚の前で復唱しなければならないが、今年の「新年の辞」で金正恩は今までにないセリフを言った。いわく、「同志のみなさん! 新しい一年が始まるこの場に立つと、私を固く信じ、一心同体となって熱烈に支持してくれる、この世で一番素晴らしいわが人民を、どうすれば神聖に、より高く戴くことができるかという心配で心が重くなる。いつも気持ちだけで、能力が追いつかないもどかしさと自責の念に駆られながら昨年を送ったが、今年はいっそう奮発して全身全霊を傾けて、人民のためにより多くの仕事をするつもりである。私は、全人民が金日成同志と金正日同志を信頼し、前途を楽観して『この世に羨(うらや)むものなし』の歌を歌っていた時代、過ぎ去った歴史の中の瞬間ではなく、今日の現実にするために奮闘努力するつもりであり、一点の曇りもない清らかな心で人民に忠実に仕える人民の真の忠僕、忠実なしもべになることを、この元旦に厳かに誓う」と。
「盗人猛々(たけだけ)しい」とはこのことか。この文句(セリフ)は決して「鬼の目にも涙」ではない。「この世に羨むものなしの歌を歌っていた時代」とはいったいいつのことか、そもそも北朝鮮の人民が本当に「この世に羨むものなし」と言ったのか。日本の一部の北朝鮮よりの報道をする某マスコミもこの言葉をよく使っていたが、金日成の治世をたたえるために使われたこの言葉は、北朝鮮の人民とは全く縁のない言葉であった。北朝鮮の人民は「偉大な主席様がいらっしゃるので、この世に羨むものはない」と歌わされたが、実際には厳しい「物不足、食べ物不足」にあり、霞(かすみ)のような「偉大な主席様のご配慮」というスローガンではなく、「トウモロコシ米でもいいから1日3杯、腹いっぱい食べたかった」のである。実に白々しい言葉ではないか。
(みやつか・としお)