故天野IAEA事務局長の10年、イラン“核合意順守”に尽力
ウィーンに本部を置く国際原子力機関(IAEA)の天野之弥事務局長(72)が18日、死去した。事務局長3期目で、任期満了は2021年11月末だった。IAEAを取り巻く状況は緊迫している。13年間の核協議の成果というべきイランの核合意から米国が昨年5月離脱、今年7月に入り、イランが公然と合意内容に違反するなど、緊張が高まっている。日本人初のIAEA事務局長を務めた天野氏の過去10年間の歩みを振り返る。(ウィーン・小川 敏)
福島原発事故後、安全強化に貢献
日本人初のIAEA事務局長の誕生は難産だった。在ウィーン国際機関日本政府代表部の全権大使を務めた後、エルバラダイ事務局長の後任選に出馬。被爆国・日本として核専門機関の事務局長ポストを得ることは日本外務省の悲願だった。その願いを受けて出馬したが、当選に必要な有効票3分の2を獲得することは大変だった。土壇場で反対票を投じてきた国が棄権に回った結果、かろうじて当選ラインに入った。
天野氏は09年12月、事務局長に就任、国連職員食堂でスタッフと一緒に食事するなど、職員との交流を重視してきた。核のセーフガード問題にメディアの注目が集中していることについては、「IAEAは核エネルギーの平和利用を目標として創設された専門機関だ。核技術の医療応用も重要な課題」と表明、開発途上国へのがん対策として核関連医療技術の支援などに力を注いできた。就任最初の外国訪問先はナイジェリアで、がん対策への核医療支援問題が議題だった。
日本で関心が高かった北朝鮮の核問題では、査察官が09年、北朝鮮から追放されて以来、IAEAは北の核関連施設へのアクセスを失った。ただ、IAEA査察局内に17年8月、北専属査察チームを設立し、いつでも査察に乗り出すことができる体制を構築していた。
天野氏にとって最大の衝撃は、トランプ大統領が18年5月8日、イラン核合意から離脱を表明したことだろう。核協議はイランと米英仏中露の国連安保理常任理事国にドイツが参加してウィーンで協議が続けられた。15年7月、包括的共同行動計画(JCPOA)で合意が実現したが、トランプ大統領は「イランの大量破壊兵器開発をストップできない」として、核合意から離脱を宣言した。
合意によりイランの核開発活動はIAEAの監視下に置かれた。遠心分離機数は1万9000基から約6000基に削減、ウラン濃縮度は3・67%までに制限(核兵器用には90%のウラン濃縮が必要)、濃縮済みウラン量を15年間で1万キロから300キロに削減するなどが明記されていたが、今月に入り、濃縮ウラン貯蔵量もウラン濃縮度も合意の制限を超えた。
IAEAはイランの核合意順守を検証する役割を果たしてきた。そして天野氏は理事会では「イランは核合意を順守している」と報告してきた。それに対し、トランプ米政権は、イランの合意順守をIAEA理事会で報告する天野氏に対し、IAEA高官のセクハラ問題をメディアにリークし、天野氏の指導力に疑問を呈するなど、圧力を行使してきた経緯がある。
天野氏は事務局長就任直後、「米追従事務局長」と加盟国の一部からレッテルを貼られてきたが、イランの核合意維持に毅然とした態度で取り組む天野氏に対し、加盟国の間で「天野氏の株」が高まった。皮肉にも、トランプ氏のイラン核合意離脱表明は天野氏の評価を高める契機となった。
昨年のIAEA年次総会でイランのサレヒ原子力庁長官は、欠席した天野氏に言及し、「ハードワーカーの事務局長の快癒を願う」と述べていた。何度もテヘランまで足を運び、現地視察を行ってきた天野氏の言動を、イランは最も評価していた。
天野氏の10年間の歩みで忘れてならないことは、11年3月の福島第1原発事故を受けて、IAEAが主導して「原子力安全に関する行動計画」を作成し、事故の教訓をまとめ、原発の安全性強化で大きな役割を果たしたことだ。その背後に母国・日本の原発事故に心を痛めた天野氏の懸命な外交があった。日本政府は天野氏の献身的な努力に感謝しなければならない。