生かされなかったインド洋・珊瑚海の戦訓

【連載】赫き群青 いま問い直す太平洋戦史(8)

ミッドウェイの大敗

同一の戦法繰り返す、大敗の真因は日本海軍自身の所作に

生かされなかったインド洋・珊瑚海の戦訓

米艦載機の攻撃を受け炎上する飛龍

 南方資源地帯制圧後の戦略について、陸軍参謀本部は戦線を拡大させず南方支配を固めての長期持久態勢を目指したが、海軍軍令部は米軍の反攻を阻むため米豪遮断を、また連合艦隊司令長官山本五十六は米海軍に立ち直りの時間を与えぬためさらなる積極攻撃の実施を主張し、意思の統一は難航した。結局、「長期不敗の政戦態勢を整へつつ、機を見て積極的の方策を講ず」(「今後取るべき戦争指導の大綱)と玉虫色の作文で陸海の主張を併存させたが、海軍内部では山本の強引さに再び軍令部が折れ、ミッドウェイ作戦の実施が決まった。

 ミッドウェイ島に陸兵を揚げ同島を制圧、また米空母が反撃に出てきたならばこれを叩(たた)く作戦である。支作戦として、アリューシャン列島攻略も付加された。昭和17年5月27日の海軍記念日、南雲(なぐも)機動部隊は広島湾を出撃。だが既にわが暗号を解読していた米軍は、島の防備を固めるとともに、空母3隻を以(もっ)て日本軍の到来に備えていた。

 6月5日、敵情不知のなか赤城以下4隻の空母から発進した攻撃隊はミッドウェイ島を襲うが、米軍の反撃は激しかった。上陸部隊を送り込むには第2次攻撃が必要と判断した機動部隊は、空母出現に備え待機させていた艦載機の魚雷を陸用爆弾に換装する。だがその後、偵察機が米空母を発見。山口多聞少将は陸用爆弾のまま直ちに空母への攻撃隊発進を具申したが、赤城の司令部は、陸用爆弾を魚雷に戻す再々の兵装転換と援護戦闘機の準備を優先させ、直(す)ぐには攻撃隊を発進させなかった。その準備が終わらぬ間に突如上空に現れた米軍艦載機の急襲を受け、日本は一挙に空母4隻を失った。

 開戦以来、奇襲(真珠湾)か敵に察知されての強襲(セイロン、珊瑚(さんご)海、ミッドウェイ)かの違いはあれ、空母の集中運用で敵の拠点を襲い、機会あらば空母も叩く構想は全て同じだった。同一の戦法を繰り返せば手の内が読まれるため、戦法を改めるか、待ち受ける敵への備えが重要となる。一方、先の戦いの経験は次に生きたはずだ。だが機動部隊は攻め方も変えなければ、貴重な戦訓を活(い)かすこともなかった。大敗の真因は米海軍の指揮用兵の如何(いかん)にあらずして、機動部隊をはじめとする日本海軍自身の所作の内に潜んでいたのである。

セイロン島攻撃、度重なる兵装の転換で戦闘力が低下

 2カ月前の4月4日、機動部隊がセイロン島攻撃に向かう途次、所在が敵哨戒機に発見され奇襲は不可能となった。敵艦の出現が予想されるため、攻撃機の一部を陸上攻撃の爆装から雷装に転換させた。正しい処置だった。翌早朝、攻撃隊はコロンボを空襲したが天候不良で爆撃不十分となり、南雲は第2次攻撃を決断、雷装待機の攻撃機を急遽(きゅうきょ)爆装に転換させた。

 だがその後、偵察機が敵艦発見を報じたため、これを攻撃すべく、南雲は爆装転換作業中の艦載機を再度雷装に転換させた後に発艦を命じた。攻撃隊は英巡洋艦2隻を撃沈したが、度重なる兵装転換で進発に手間取った。また転換中、魚雷や爆弾が艦内各所に散在する危険な状況が続いた。幸いこの時は付近に敵空母はおらず事なきを得たが、度重なる攻撃目標の変更や兵装の転換で、空母の戦闘力や防御力を大きく低下させてしまった。

 続く4月9日のトリンコマリ攻撃では、攻撃隊が英空母ハーミスを襲撃していた頃、機動部隊上空に敵重爆撃機9機が突然現れ、赤城や利根に爆弾を投下した。命中弾はなかったが、水柱が上がるまで重爆の存在に全く気付かず、赤城は一発の発砲もできなかった。この不意打ちは、重大な危機だった。インド洋作戦終了後に纏(まと)められた戦訓報告では「奇襲が成り立たず強襲となる事態に備え、敵航空兵力に対する警戒措置に万全を期すること」「高性能偵察機の配備など索敵能力の充実強化を図ること」「高高度から来襲する敵機に対する見張り能力の飛躍的向上」やレーダーの装備を急ぐことなどが指摘された。

 しかし内地帰投後、休む間もなく機動部隊はミッドウェイ作戦に投入され、改善措置は採られなかった。真珠湾攻撃当時と違い、5月の珊瑚海での戦訓から、空母対空母の戦いでは相手に先んじ敵空母をいち早く発見、攻撃することが戦いの死命を決することも既に学習済みだった。それにも拘(かか)わらず機動部隊はミッドウェイで十分な索敵活動をせず、また戦力低下を嫌い、空母に搭載する攻撃機を減らし新鋭の偵察機に置き換えることにも躊躇(ちゅうちょ)した。

敵機への警戒など戦訓を無視、驕慢と妄信が命取り

生かされなかったインド洋・珊瑚海の戦訓

機動部隊を襲った米海軍急降下爆撃機ドーントレス

 「島も奪え、空母も叩け」の欲深で目標の優先順位も示さぬ曖昧な命令の下、偵察を軽んじ敵空母不在と思い込んだ機動部隊の関心は、島の攻略に集中した。そのため慎重居士の南雲が参謀の具申に安易に従い、敵空母用に待機させていた艦載機の兵装転換を命じた。さらに敵空母発見後は兵装転換を優先し、即攻撃隊を発進させず、上空の警戒も疎(おろそ)かだった。戦訓を無視しミスを繰り返したことが、戦機を奪い壊滅的な被害を招いたのだ。

 華々しい戦果に酔うことなく、危機の再来を防ぐ措置を講じておれば、暗号が解読されていようとも、兵力で上回る日本がこの海戦に勝利した可能性が高い。「米英恐るるに足らず」の驕慢(きょうまん)さ、偵察や防御を軽んじる攻撃絶対の妄信が命取りになった。最高指揮官南雲の責任は大きい。

 戦後、草鹿参謀長は「あと5分あれば空母に向け全機発艦を終え、沈没は免れた」と記し、日本は運が悪かったとの解釈が広がった。だが攻撃隊発艦にはより長い時間を要した事実が後に明らかにされた。不運の敗北などではなく、負けるべくして負けた戦であった。

(毎月1回掲載)

 戦略史家 東山恭三