憲法の平和主義は亡国の道

竹田 五郎軍事評論家 竹田 五郎

全世界非武装化は夢想
自衛権放棄で独立維持できず

 昨年11月3日付東京新聞朝刊は社説として、改憲反対論を展開している。冒頭、なぜ憲法で戦争放棄を国民の権利より優先して第2章に記述したのか、憲法学者の杉原泰雄一橋大学名誉教授の子供向け「憲法読本」の説明を引用している。その要旨はまず<伝統的には、軍隊と戦争は、外国の侵略から国家の独立と国民の基本的人権を守るための手段と考えてきた>と、まさに正論である。

 しかし、その後では<明治憲法下の戦争は、一般国民にも他の国民にも損害と苦痛を与え、戦争をしては基本的人権を守るどころか、人命や財産までも奪われる。そんな思想が憲法にあった。現憲法は、その前文において「日本国民は恒久の平和を念願し、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しよう、平和のうちに生存する権利を有する」と、述べ平和の文字が次々に現れる。深い悔悟を経て、自然に出てくる見方である>と現憲法を高く評価し、明治憲法を好戦的悪法と断定している。

 筆者は愚考するに 明治憲法は明治22年に公布されており、その頃、欧米諸国はアジア侵出の野望を抱いていた。日清、日露戦争等が全て悪であろうか。現憲法の独善的平和主義を信奉し非武装では、外敵の侵略は排除不可能で、その後の日本は、隷従的平和に甘んずるのみで、経済発展も自由もなく、独立国として存在し得たかも疑わしい。

 現憲法は前文により戦争の放棄を宣言し、「第2章 戦争放棄(第9条)」でその内容を詳述、日本は非武装化された。しかし朝鮮戦争勃発により、必要最小限の防衛力は必要と判断し、警察予備隊、保安隊、自衛隊と称する似非的軍を育成してきた。しかしその運用については、9条により、明確ではない。戦後70年の平和は、幸運と米国の戦争抑止力によるものである。

 さらに11月28日付同紙朝刊は「改憲に市民も『ノー』を/ 憲法ネット103 中大で初講座」と題し、憲法を政治や生活に生かすことに取り組む憲法研究者と市民ネットワーク(略称・憲法ネット103)が、27日、中央大後楽園キャンパスで初講座を開き、市民に改憲反対を呼び掛けたことを報じた。神奈川大の根森健特任教授は、「自民党が目指す自衛隊の明記は、『(憲法の戦力不保持という)憲法のアイデンティティーの喪失につながる。とりあえずの破壊への着手だ』と訴えた」

 しかし、非武装で自衛戦争まで放棄して、自国の独立ができるのだろうか。筆者は昨年、本欄を通じて憲法学者、マスメディアに対して、戦争を学び、芦田修正9条の「前項の目的」を明確にせよと、苦言を呈した。「平和ボケ」の国民は、前述の憲法の前文を信じ、自主防衛の覚悟は薄い。国際政治は、基本的には無政府状態と言えようか。

 第2次世界大戦後、世界平和を希求する国は国連を結成し、今や加盟国は193に達している。しかし、紛争は絶えない。特にアジアにおいては、北朝鮮の核装備、中国の南シナ海進出等、戦争に発展しかねない情勢である。さらに日本には北方領土、竹島および尖閣諸島問題があり、他国の公正と信義に期待し、非武装、さらに自衛権を放棄して、平和を保持し、独立を堅持できるであろうか。力なき正義は無力である。

 現在、非武装国は27カ国であり、ほとんどが小国で島国である。それぞれが集団的自衛権により、あるいは警察の名において武装し、自国を防衛している。日本は「非武装国」ではあるが、突出して、大国である。しかも米、中、露3大国にとって、戦略上無視できない重要な海域に占位している。

 非武装国として著名なコスタリカ共和国は、中米に位置し、人口400万、国土面積は九州と四国を合わせた程度である。1947年、憲法により常設軍を廃止した。しかし、これは完全な非武装政策ではなく、有事に国家、国民が外敵からの侵略を無抵抗で甘受することを認めることではない。

 同国憲法第12条には「大陸間協定により、もしくはまた国防のためにのみ、軍隊を組織することができる」とし、集団的自衛権の行使、自衛権の行使ができる軍隊を組織し、徴兵制を導入することも認めている。しかし、有事の徴兵のみでは、精鋭な軍隊は期待できぬためであろうか、第2次世界大戦後、平時は重装備の治安警察隊を組織し、そのための組織の予算も、隣国ニカラグアの軍事費の3倍である。

 日本の国防政策と一見すると類似しているが、有事の対処には基本的に相違がある。日本は「非武装国」として、平和を保持し得た故に、非武装国の先頭に立ち、世界の非武装化を進めよとの運動もあるが、さらなる大国化の野望を抱く国もあり、全世界非武装化は夢想と言えよう。現憲法には前文、戦争放棄、交戦権等、国民に誤解される点もあり、修正すべきであろう。

(たけだ・ごろう)