蔓延する得体の知れぬ「空気」
NPO法人修学院院長・アジア太平洋交流学会会長 久保田 信之
自由な発言を萎縮さす
「創造的思考」取り戻す必要
山本七平氏は『「空気」の研究』の中で「昭和期以前の人びとには、『その場の空気に左右される』ことを恥と考える一面があった。しかし、現代の日本では空気がある種の絶対権威のように驚くべき力を振るっている。あらゆる論理や主張を超えて人々を拘束する。この怪物の正体を解明し、日本人の独特の伝統的発想、心的秩序、体制をさぐる」という趣旨のことを述べている(1983年刊行 文春文庫〈306-3〉)。
山本七平氏がここで指摘するように、時間軸、空間軸の中にしっかりと自分自身を位置付け、日本を世界的視野の中で考えることができるような「安定した心の持ち主」が『昭和以前』には日本の津々浦々にあまた居た。特に「政治を志す人間」にとっては、この座標軸の安定が必須条件であるとの常識も息づいていたのだ。
しかし、「空気」に左右されない信念を持つ人や重厚で気骨のある人は、「とっつきにくい人」として煙たがられ、阻害さえされているのが、現在の日本社会ではなかろうか。少なくとも、山本氏がこの書で懐かしむ「昭和以前の精神状況」が今や薄らいでしまったことは事実のようだ。
テレビにコメンテーターとして席を連ねている人たちの中には、その時その場の世の中の「空気」を巧みに察知してか、軽く、柔軟に対応して務めを無難に果たしている器用人が多いように思えてならない。彼らの習性として、論旨を明確に整え、理路整然と結論に至る、という「評論の鉄則」を無視しているようだ。分刻み、秒刻みのテレビ番組に期待すること自体、時代錯誤だ、と否定されそうだが「コメントなし」「価値判断なし」の「事実だけ」をわれわれに提供してくれないか。メディアの中でもテレビが「空気」をつくり出し、茶の間に送り付けることは謹んでほしいものだ。
日本の社会で深刻の度を増している「イジメ」は、「空気」を読むことに不得手な、あるいは「空気」にうまく乗れない人が被害者なのではあるまいか。あるいは、その場の「空気」の度合いによって無視したり、襲いかかって徹底的に排除しないではいられない精神状態になったりしているのではなかろうか。「イジメ」の現象は年齢を問わず、現在の日本人の多くが、その場の「空気」によって引き起こしている態度ではなかろか。
「空気」をことのほか重要視し、時には、この「空気」を最も恐れているのは政治家ではなかろうか。彼らは、支持者を募り一票でも多くの票を獲得することを至上命題にしているから、己の政治姿勢や主義主張を理路整然と、丁寧に訴えるよりは、「空気」に逆らわず、「空気」をうまく捉え、「空気」に迎合した方が勝利をつかむ得策だと思い込んでいる。
逆らうことができず、無視することもできない、得体の知れない、この「空気」を恐れているのは、政治家だけではなく一般庶民でもあるのが現在の日本社会ではなかろうか。
ところで、これほど、自由な発言を萎縮させ、時には思想信条の自由を阻害しているこの「空気」は、共産中国や北朝鮮といった独裁社会に見られる、権力によって作られた「思想統制」とは、本質的に異なるように思う。
この「空気」は、発生源がどこか、誰か、特定できないのだ。この「空気」の特徴は「何となく」という日本語が的確に表現しているように「良い悪い」「快・不愉快」も、さらには「危険だ、安全だ」「好きだ、嫌いだ」といった基本的な心情をすら支配する力を持っているのだ。
それが「右に揺れるか左に揺れるか分からない。しかし、一度傾けば、ポピュリズムを演出するかファシズムを演出しだすのだ。「空気」は、誰にも操作できない、抵抗できない独裁者なのだ。
現在の日本では、新聞やテレビ、さらには多くのIT機器が、現実に起きている事件や事故を切り取ってわれわれに伝えている。しかし、日本の報道はほとんどが短命だし、お笑いタレントのような素人にコメントさせていることもあって、受け手が真剣に体系立てて取り組むようにはなっていない。
日本人は、決して諸外国に比して教育水準が低いわけでもない。しかし、自分で課題を設定し、自分でデータを集め、自分なりの仮説を組み立て体系的にまとめるといった「思索の楽しみ」を味わったことがない。教育と称しながらも、どこかにある答えを早く的確に探しだすことを訓練されて青年になるのだ。「答えが分からない問題など考えても仕方がない」とか「こんな厄介な問題など私一人が解決できる問題でもない」「私が悩んだところでどうなるものでもない」と突き放してしまうのだ。ここに生ずる「空気」は、「なんとなく嫌だな、困ったな」といった「よどみ続ける空気」でしかないのだ。
とらえどころのない独裁者に脅え、深まらない議論の空しさにいら立つ「よどんだ空気」から自由になるためには、身近な「何となく」で止まらずに、少しでも前進する建設的な仮説を組み上げていく努力が必要だ。「創造的思考」「現実から出発する思考」を取り戻すほかないように思うが、いかがであろうか。
(くぼた・のぶゆき)






