事実歪める共産・藤野発言
平和と安全守る防衛費
旧ソ連の軍事費とは全く異質
参議院選挙戦の最中に、共産党の藤野保史政策委員長(当時)が国の防衛費に関して「人を殺すための予算」と発言したことは、この人物が同党の政策を吟味し選択し策定することに関して強い発言権を持つ地位にあっただけに重大な意味を持つ。何より事実に反する。
最近の熊本を中心に九州を襲った熊本地震、それより前の中越地震、阪神淡路大震災、5年余り前の東日本大震災―そのたびに自衛隊員が出動してそれこそ自らの危険をものともせず被災者たちの発見と救助に当たっているのが実情にほかならない。海外でも平和維持活動のために貢献している。
話は脱線するが、確か昭和期の末ごろ、在日米軍が首都圏に散在する基地のいくつかを返還してきたことがある。水戸郊外の射爆撃演習場、朝霞、入間、立川、厚木その他、いずれも地の利を占めている。これをどう使うかについて「返還財産処理特別委員会」が発足し、筆者もその一員に加えられて、返還地を視察して回ったことがある。
さすがに、いずれも地の利を占めており、返還基地の利用をめぐって、行政機関の要請が相次いだ。例えば水戸郊外の射爆撃場跡地の一部を北関東の物流センターとして活用したいとか、朝霞(米通信基地)跡には警察当局からも。その他、それこそ“引く手あまた”の状況だった。もちろん、自衛隊からも要請があった。
「首都圏に自衛隊は要らない」と、いわゆる進歩的文化人たちの一部が筆者ら特別委員会委員に圧力団体よろしく申し入れてきたのは、その頃のことだった。
「何を言うか。首都圏に何か予測外の重大事が突発したら、自衛隊なしで一体どう対処できるのか」と反論して“お引き取り”いただいた記憶がある。
こんな話を持ち出したのは他でもない、紹介した進歩的文化人らの言動と今度の藤野発言との間に共通した発想が根底にあると受け取れるからである。
戦争が原則としていけないことは、筆者自身も実体験を通じて確信している。昭和20年3月、米国の東京大空襲に続いて筆者自身の住む名古屋も大空襲に見舞われた。そのためわが家は全焼、小・中学校の思い出の残る成績表も卒業写真や高校での乗馬姿の写真その他を含めて全て灰、文字通り「着の身着のまま」になってしまった。
隣家に下宿していた名古屋帝国大学(当時)の学生2人のうち1人は焼夷(しょうい)弾の直撃を頭に受けて即死、爆弾のため一家全滅の事例も多かった。戦争による惨禍は計り知れない。これには、戦争のもたらす悲惨さを実体験した日本国民共通の思い―というより確信があろう。ところが、藤野氏の所属する共産主義の勢力はどうか。すこぶる付きで疑わしい。
例えば1956年10月からのソ連(当時)を盟主とするワルシャワ条約機構軍によるハンガリー大弾圧。共産政治体制の変革へ動こうとした同国に軍事介入し犠牲者を出している。共産体制を拒否するハンガリー国民の隣国オーストリアへの脱出が相次いだ。同年12月、たまたまオーストリア政府の招待で同国に滞在中だった筆者は、ハンガリーとの国境まで案内され、難民たちの話をじかに聴く機会があった。
逃げることに成功したある青年は「未明から深夜まで働いても食べていくのがやっと」と語ったが、それより何より強烈な印象を受けたのは、乳児を抱えた若夫婦の脱出行の打ち明け話だった。何しろ乳児を抱えている。乳児だから、どこでいつ泣き出すか分からない。泣き出したら、直ちに警備員に発見され逮捕されて、もちろんひどい処罰を免れない。そのため、何と乳児に睡眠薬を飲ませて眠らせ、やっとの思いで国境を越えることができた―と夫婦こもごもに涙を浮かべながら語った。
ハンガリーの共産政治体制の修正の動きを阻止したのも、共産政治体制が続くのを拒否してオーストリアへの脱出行を防止するのに懸命になったのも、ワルシャワ条約機構軍の圧力によることは、言うまでもない。同機構の存続と活動のための各国の財政資金こそが、「人を殺すため」のものであったことは、疑問の余地は全くない。
関連して述べておく。故フルシチョフが旧ソ連時代の政治のトップだった当時のこと、わが国の北方領土返還要求に関連して、「戦争で取られたものは戦争で取り返す以外にない」と豪語したことがある。「戦争で取り返す以外に…」は、言うまでもなく平和裏の話し合い拒否であり、強大な軍事力を背後にした脅しと取れる。それだけの軍事力維持には、当然ながら膨大な軍事費が要る。その軍事費こそ、「人を殺すため」と言われてもやむを得まい。日本の防衛費とは完全に異質という以外になかろう。帝国主義時代の先進各国の軍事費も、「人を殺すための予算」と言われてもやむを得ぬものがあった。現在の防衛費とは全く違う。藤野発言の意図を疑う。
(おぜき・みちのぶ)