歴史摩擦と「独の教訓」の限界

櫻田 淳東洋学園大学教授 櫻田 淳

日中韓に要る同等の努力

違い認識するメルケル首相

 日本を含む東アジア諸国にとっては、「戦後70年」とは、歴史認識に絡む摩擦が燃え盛る局面になったようである。歴史が「他人の経験」の集積であるならば、そこから様々な教訓を引き出そうとするのは、それ自体としては当然の姿勢である。その際、従来、頻繁に行われてきたのは、日本とドイツを比較する議論であった。

 ただし、そもそも、「戦後70年」だけではなく、日本近代史全般の「総括」という文脈でならば、1940年の日独伊三国同盟締結は、「日本近代外交史上、最大の愚策」である。この同盟選択の故に、ヨーロッパと東アジアで「異なる戦争」を闘っていたはずの帝国・日本とナチス・ドイツは、特に米英両国から「枢軸国」として半ば同一視され、第2次世界大戦の「敗戦国」として現在に至っている。

 しかも、戦後、日本がサンフランシスコ講和条約を機に戦争に絡む法的落着を半ば一挙に進めることができたのとは対照的に、ドイツは、コンラート・アデナウアー執政期以降、ヴィリー・ブラント執政期に至るまで、周辺諸国との「和解」のための努力を営々と積み重ねなければならなかった。戦後、東西に分断されたドイツにとっては、将来の「再統一」の芽を潰(つぶ)さないことが、その対外政策路線における一つの柱であったのである。日本とドイツは、第2次世界大戦の「敗戦国」という点では共通しているけれども、その戦争の中身や戦後の軌跡には、相当な違いがある。

 ドイツの政治家が、そうした経緯を無視して、一方的に日本に「訓戒」を示す風情で物事を語ろうとするのであれば、それは、日本にとって厄介なことになるには違いなかった。

 事実、従来、「国際社会における真の友人がいないという現実を日本は直視すべきだ」と語ったヘルムート・シュミット(西ドイツ首相。在任期間1974~1982年)にせよ、「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となる」と語ったリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー(西ドイツ、ドイツ大統領。在任期間1984~1994年)にせよ、日本で広く知られているドイツ政治家の言葉は、「ドイツに比べて日本は…」という意味合いで紹介されたからである。そうした「対日訓戒」の言葉をアンゲラ・メルケルも訪日に際して披露することを期待する向きがあったのは、紛れもない事実であろう。

 しかしながら、メルケルは、来日中、東京都内での講演や記者会見の場では、「日本に対して、アドバイスを示すために来たわけではない」という姿勢を徹底させた。メルケルは、岡田克也(民主党代表)との会談の席で、「(日韓関係は)和解が重要」と促した旨、報じられたけれども、その報道もまた、メルケルの訪日に同行していたシュテファン・ザイベルト(ドイツ政府報道官)によって、後に否定されている。

 要するに、メルケルが示したのは、歴史認識に絡む摩擦の緩和には、それぞれの関係当事国の相応の努力が要るという認識である。ドイツは、過去と誠実に向き合ったけれども、ドイツの周辺諸国は、それに「寛容」を以て応じた。

 メルケルの発言は、「日本は努力すべきであるけれども、日本だけが努力すべきであるというわけではない」という趣旨で韓国世論の反発を受けたウェンディ・シャーマン(米国国務次官補)の発言と大差ないであろう。加えて、メルケルは、権力分立、法の支配、人権、そして市場経済の原則を擁護する現下の日独両国の「共通の立場」を語った。メルケルの一連の発言は、日本にとっては、「有り難い」ものであったという評価になろう。

 これに関連して、ローラン・ファビウス(フランス外相)は、訪日時の記者会見の席で、独仏和解を材料にして日本に歴史認識での反省を求めた韓国国内の動きについて、「(仏独と)アジアでは取り巻く状況も地理的条件も異なることを忘れてはいけない」と述べている。特に日韓歴史摩擦では、独仏関係が参考にならないのは、半ば常識である。このファビウスの発言それ自体は、そうした常識を語ったものでしかない。

 韓国政府・メディアは、ドイツだけではなくフランスからも、自ら期待したであろう「対日訓戒」の言葉を引き出すに至らなかった。歴史認識摩擦に際しての対日優位を確保するために、欧米諸国の政治指導者の言葉に乗じようという韓国政府の外交手法は、その思惑が特に独仏両国に見切られたことによって、却って限界に行き着いているのである。東アジア地域における歴史認識摩擦には、日本や中韓両国における同等の努力が要請されているのである。

(敬称略)

(さくらだ・じゅん)