明治医学界のユダヤ系恩師

佐藤 唯行獨協大学教授 佐藤 唯行

差別と闘ったエーリッヒ

秦佐八郎、志賀潔を育てる

 今から百年ほど前、梅毒は今日のエイズと同じぐらい、人々から恐れられた病であった。

 その特効薬サルバルサンを1909年に開発したのがパウル・エーリッヒ(1854~1915)と秦佐八郎(1873~1938)。

 ドイツユダヤ人と日本人の師弟コンビだった。赤痢菌発見で名高い志賀潔(1870~1944)もエーリッヒの弟子だ。両者は1904年、感染症治療のための化学療法剤を世界で初めて開発した。人体には毒性が少ないものの病原微生物を退治してくれる化学物質を医療に用いる画期的な手法だ。明治日本を代表するこのふたりの医学者は野口英世が下働きをしていた「北里研究所」の兄弟子だ。

 学歴エリートだったこのふたりは渡米した野口と異なり、正統派の留学先、ドイツへ赴いたのだ。当時のアメリカは学問の分野では未だドイツの後塵(こうじん)を拝する国だったからである。

 20世紀初めの国際医学界で燦然(さんぜん)と輝く巨星、エーリッヒの学者人生は母国ドイツのユダヤ人差別との闘いの連続であった。1878年、ベルリン大学医学部を卒業後、助手となった彼が、ようやく無給の私講師に昇進できたのは1889年のことだった。彼の業績に対する不当な評価のみならず、独医学界には彼を「妄想学者」と誹謗(ひぼう)する者たちもいたほどだ。

 1908年に免疫学の独創的研究により、ノーベル賞を受賞した時、54歳の彼は准教授の更に下の助教授という慎ましい地位に甘んじていた(因みに反ユダヤ主義が稀薄なスウェーデンの学者達が選考委員会を構成するノーベル賞ではユダヤ系学者が不当な扱いを受けることは少ない)。エーリッヒがフランクフルト大学でようやく准教授の地位を得られたのは死去する前年、60歳になってからのことである。

 シオニスト団体のメンバーとして活動し、ユダヤ人意識の強いユダヤ人だった彼が、素性を隠した同化主義的ユダヤ人よりも昇進に際して不利な扱いを受けたことは想像に難くない。教授団が昇進を推薦した場合でも文部省がそれを却下する事例も珍しくなかった。これはエーリッヒの身にふりかかった個人的不幸ではない。ドイツ帝国の大学医学部におけるユダヤ人学生の占有率は既に1905年、24・5%に達していた(背景には彼らの高学歴・専門職志向があった)。

 一方、1908年、ベルリン大学医学部の教員中に占めるユダヤ人の占有率をみてみると、19人の正教授中、ユダヤ人はゼロ。11人の准教授中、ユダヤ人は3人。43人の助教授中、ユダヤ人は9人。ところが113人もいた無給の私講師では実に44人をユダヤ人が占めている有り様だ。このような理不尽な世界にエーリッヒは耐えなければならなかったのだ。

 ワイマール共和国(1918~33)が成立する以前、ドイツ医学界での出世の必須条件とは学問的業績よりはむしろ宗教的背景であったと言えよう。帝政期のドイツで正教授の地位を得たユダヤ人の大半はキリスト教に改宗したユダヤ人であったのだ。

 大学医学部で不遇をかこったエーリッヒにとり、研究生活の拠り所はフランクフルトに新設された実験治療研究所であった。1899年、所長として招聘されたこの研究所において、ふたりの日本人弟子との共同研究で成果をあげたのだ。エーリッヒが考え、秦と志賀が地道な実験を繰り返し、薬剤開発に成功したのだ。実験結果が良好だと弟子をほめ小躍りするエーリッヒの姿を志賀は目撃している。しかし、幸福な日々も長続きしなかった。

 サルバルサンを市販し、巨利を博するようになると、研究所は「暴利を貪(むさぼ)っている」との悪意に満ちた非難に曝(さら)されたからである。この研究所は独米にまたがるユダヤ金融財閥、シュパイエル家が設立基金を提供し、所長もユダヤ人。世間の人々は「ユダヤ研究所」と中傷したのだ。1915年、エーリッヒが急逝したのは、こうした誹謗に心を痛めたことも影響したと言われている。

 エーリッヒにはドイツ人の弟子は幾多いたが彼の死後、未亡人にまで細やかな心配りを続けた弟子は日本人、秦だけだったそうだ。

 敗戦後(第一次大戦)のドイツで困窮する未亡人に紅茶等の嗜好品を送り続けた秦に対し、未亡人は「主人には多数の弟子がいたが、かくも情誼(じょうぎ)に厚い弟子は日本人の秦だけだ」と語っている。志賀もまた恩師への尊崇の念を抱き続けた。1940年、師の業績と生涯を顕彰するために「エルリッヒ伝」を出版している。生前のエーリッヒも自分を慕うふたりの日本人弟子には格別の愛顧を示している。

 明治大帝崩御に際し、志賀はフランクフルト在留邦人を集め、遙拝式を主催したが、エーリッヒもこれに列席し、大帝への敬意を表したという。ドイツ社会の反ユダヤ主義に呻吟(しんぎん)したエーリッヒにとり、一片の邪推も抱かず、ひたすら敬愛と尊崇の念で自分に接してくれた秦、志賀との交流・共同研究は得難い心休まる時だったのであろう。

(さとう・ただゆき)