天安門でも、どこでも 頑張る母たちへの応援歌
今年も、「天安門の母」は、がんじがらめに監視されて6月4日を迎えた。26年前のこの日、北京の天安門広場で、民主化を要求する学生や若者が戦車で押し潰された。中国共産党は死者が319人と発表したが、実際はずっと多そうだ。
事件で息子や娘を失った「天安門の母」の会は、事件見直し、真相究明を要求してきた。だが、政権は常に「反革命動乱と決定ずみ」と切り捨てた。
人権派圧迫を強める習近平現政権。一昨年政権が、活動を停止すれば示談金を支払うと提案、母側が拒否したとか。母たちは「習政権は、中国を毛沢東時代に戻しつつある」と非難した。毎年3月開催の全国人民代表大会に、事件の議論を求める手紙を送ってきたが、今年は「ウシの前でピアノをひくのはもうやめた」。4月、事件後米国に亡命した元学生指導者が、「危篤の母親に一目会いたい」と訴えたが、入国を拒否された。
そんな出口のない状況でも、母親の一人は先月、米ラジオでこう強調した。「息子を失った直接的苦しみは多少弱まったが、闘う決意は一層強まっています」。
南米アルゼンチンでも、母の会が頑張っている。「5月広場の母の会」、「同祖母の会」だ。この国では、1976年のクーデターで登場した軍事政権が7年間、反対者撲滅の秘密大作戦を展開、拉致、拷問の末、飛行機から突き落とすなどで、推計3万人の死者・行方不明者を出した。多くは10代、20代の青少年だった。妊娠中の女性を収監し、出生児は軍人の養子にしたり、売ったりし、女性は出産直後に殺した。
軍政終盤から、行方不明者の母、祖母らが会を結成、大統領官邸前の5月広場で、毎週静かなデモを行ってきた。民政移管後も2000年まで、恩赦法のため軍政時代の犯罪も不問に付されていたが、その後、恩赦法違憲判決が出て、政府も軍政時代の責任者の逮捕などに踏み切った。だが、膨大な数の行方不明者の消息は、容易に判明しない。昨年、祖母の会代表の孫息子の生存が36年ぶりに分かったが、稀な例だった。
だが、ここでも昨年、100歳の会員が、仏紙とのインタビューで宣言した。「まだまだ行動を続けます」。
先月、レバノンの首都ベイルートで、同国に本拠を置く過激派組織「ヒズボラ」に対し、母親たちの座り込みデモが行われた。
ヒズボラはシリア内戦でアサド政権を支援し、何千人もの民兵を送り込んでいる。多くは少年だ。激戦地にやられた息子たちを案じ、「すぐ返せ」のデモとなった。
長年、内戦が続いたスリランカでも、インド、パキスタンが対立するカシミール地方などでも、母の会があった。父の会は、まずない。
個人でも、強い母は随所にいる。1990年代、米国にいた私は、ベトナム戦争で行方不明になった息子の生存を信じる、米国版「岸壁の母」に強く印象づけられた。飛行士の息子がラオス上空で撃墜された母親は、「22年間、ラオス、パリ、ジュネーブと、行ける場所は全部行った。これが私の捜索旅行の最後なのです」と訴えた。
別の母親は、自宅前に大きなボードを立て、「息子が出征後、今日で八千何日」という数字を毎日書き換えていた。
どこにも母の愛と、真実を突き止めようとする熱情がある。天安門の母たちは、万里の長城より高い壁に向かい、「ごまめの歯ぎしり」をしているだけかもしれない。でも、歯ぎしりはやまない。不屈の母親パワーに、声援を送らずにいられない。
(元嘉悦大学教授)