言論戦、女性の人権、難民 ベトナム戦争40年で考える
4月30日は、ベトナム戦争終戦40周年の日だ。戦争は73年1月のパリ和平協定で米軍が撤退した後も続き、75年のこの日、北ベトナムと解放戦線の共産軍が、南ベトナムの首都、サイゴン(現ホーチミン市)を攻落した。72~74年に現地に駐在し、以後もフォローした体験から、日本の今の課題とも関連する三つの問題を取り上げたい。
第一に、戦争・紛争の当事者は、ウソを含むあらゆる言論手段を用いるということ。
和平協定で、停戦を実行し民族和解へつなげるため、合同軍事委員会が設けられた。共産側代表団も、サイゴン郊外の南政府空軍基地内に常駐したが、双方停戦違反の連続で、代表団の仕事は週1回の記者会見ぐらいとなった。
会見で、スポークスマンのジアン大佐が繰り返す。「チュー(南政権大統領)さえ退陣すれば、民族和解できる」
実は、彼らは武力決着戦略を決めていた。私は決着前に帰国したが、後に残った記者から聞かされた。「終戦後、街でジアンに出会ったら笑っていたよ。記者たちをうまくだましてやったって」。言論戦用のウソを懸命にメモし続けた私はガックリしたが、それが戦争だった。
日本は今、常時戦争モードの北朝鮮のほか、近隣からさらに厳しい「歴史戦争」の言論戦を挑まれている。ウソ以外のあらゆる言論手段で、積極攻勢に出るべきだ。謙譲の美学に反するが、日本が過去50年、どれほど近隣諸国の経済発展に協力したか、事実を率直に示そう。安倍首相の戦後70年談話でも、である。
第二。女性をひどく傷つけない戦争はない。ベトナム戦争でも、米韓など外国軍はレイプ、買春などで、膨大な数の混血児をベトナム女性に産ませて去った。
81年、私はホーチミン市に数日間滞在した。毎晩、ホテルの外の暗闇で、女性が希少な「西側」からの旅行者の私を待ち構え、封筒を手渡してきた。中は、「元米兵の夫を探しています。どこかの米大使館にこの封筒を渡して」とのメモ(米ベトナム間はまだ国交がなかった)、母子の写真、手紙が詰まっていた。それが60通以上も。あの大量の封筒の重さは、今も手に残っている。
因(ちな)みに、戦争の国に商売に来た少数の日本人企業戦士にも、「子どもを産ませてドロン」組がいて、私は日本人父親捜しも頼まれた。日本人も問題だ。
だが、朝日新聞のように「日本軍慰安婦問題の本質は、強制連行の有無でなく戦時下の性暴力、人権問題にある」と言うなら、どの外国軍にも歴史と向き合うよう説くべきだ。米国内に建つべきは、慰安婦像よりベトナムの嘆きの母子像ではないか。
第三に、難民。75年以降、インドシナ革命3国から144万人が脱出した。日本も当初受け入れに消極的だったが、1万1000人を定住させた。
私が関わるNGOは、昨秋ベトナム難民50人に、来日後の人生を自己採点してもらった。6割が10点満点の9点以上をつけ、落第点の5点以下はいなかった。
しかし今、日本の難民受け入れは、また曲がり角に来ている。難民申請は昨年5000人にも上ったが、認定は11人だけ。迫害とは無関係の難民申請が増えている。
世界の難民は絶えず、地中海でアフリカ発の難民・移民船の沈没が続く。ベトナムのボートピープルの苦難を思い出させる。外国のキャンプにいる難民を受け入れる「第三国定住」に、もっと真剣に取り組むべきだろう。それが、積極的平和主義にふさわしい難民受け入れと思われる。
(元嘉悦大学教授)