朝日新聞と日本の国際報道、負のくびきと無反省
今年の回顧。報道・言論界の大激震、朝日新聞問題を、日本の国際報道全体の観点から少し見てみたい。
日本の国際報道は、①外国首脳との単独会見、②多数の外国駐在特派員、③お墨付き記者の特権的取材――を売り物としてきた。それがしばしば負のくびきともなった。
中国、北朝鮮などに社長や編集局長が出かけての単独会見は、中身が薄い場合も多かった。代表例が、1992年の朝日の金日成会見だ。
金主席が映画「男はつらいよ」を全巻見た話は詳報しても、すでに十分濃厚とされた拉致疑惑は質問なし。質問したら、息子の金正日書記の強引さに不満だったと見られる親父の“ツルの一声”で、拉致問題が早期に何らか動いたかもしれない。見逃し三振の会見だった。
特派員を維持するための自己規制では、朝日の社長が文化大革命期に訪中後、「追い出されるようなことは書くな」と指令した話が有名だが、私も新聞社(読売)時代、小さな体験をした。
外交提言を出そうとの企画で、私がまとめ役となり、各部の記者や論説委員で討議を重ね、素案を作った。だが、「対中国ODA削減」という部分に重役が猛反対。「北京特派員が追放されたらどうするんだ」。結局、提言にならなかった。
お墨付き記者は、自由取材を認めない国から、特別に招かれて書く。時には、記者が相手国に自動車を贈った、ともいう。特権は離せない。
朝日の本多勝一記者の1967年のベトナム戦争ルポ「戦場の村」は、民衆の目線だったが、70年代に中国、社会主義ベトナムに招かれ、相手当局目線に変わった。「中国の旅」への異論に対する彼の反論は、「相手の言うままを書いたのだから、文句は中国へ」だった。
ベトナムでは、脱出する難民に冷淡な記事を書き、革命政権の宗教政策に抗議して僧侶、尼僧12人が集団焼身自殺したとされる事件は、当局の代弁者の「あれは色ぐるいの無理心中」という発言だけを伝えた。
朝日の左傾は、生来のDNAに加え、以上の三つの売り物を通じ、カーテンの向こうの相手への迎合、自制を通じて増強された。
そして、特に国際関係の報道や言論では、慰安婦問題に限らず、誤りを反省する習慣がなかった。例えば、70年代に「民族解放闘争」に勝って登場したカンボジアのポル・ポト政権の大量虐殺に対し、かつて「解放」に拍手したマクガバン米上院議員や仏評論家、ラクチュールらが猛省し、虐殺を猛非難した。だが、日本には彼らはいなかった。
同政権崩壊1年後に出版された本多勝一編「虐殺と報道」では、虐殺があったと思うか記者、学者、評論家、政治家ら32人に尋ねているが、大量の遺骨が発掘されていたのに、13人が虐殺否定に固執した。後に反省した人はない。
この際、南京事件、文化大革命、北朝鮮と拉致、ベトナム戦争など、過去の重要国際報道もきちんと再点検すべきだ。だが、これは現在の問題でもある。
現国際情勢を「新冷戦時代」と形容する人もいる。鉄のカーテンの再来は、プーチン・ロシア大統領も否定しているが、イスラム圏や韓国も含め、何らかのカーテンは今もある。
共同通信は平壌支局を開設以来、「北朝鮮を批判せず、ジャーナリズムの魂を失った」と、一部で酷評されている。
共同に限らず、万一金正恩第一書記単独会見の機会が与えられた時、拉致被害者全員返還を鋭く迫る会見ができるのか。確信は持てない。
(元嘉悦大学教授)