聖徳太子像富士登山が10回目に

信仰の山復活 8合目で法要

富士吉田市・如来寺住職 渡辺英道氏に聞く

 去る8月3日、山梨県富士吉田市の浄土真宗本願寺派如来寺(渡辺英道住職)は恒例の「聖徳太子像富士登山」を行った。記念すべき10回目の今年はこれまでで最多の31人が参加、好天に恵まれ一行は8合目まで登り、聖徳太子の徳を称(たた)える一座法要を営んだ。世界文化遺産になった信仰の山にふさわしい江戸時代の行事を復活し、続けている渡辺住職に、その歴史と意味を伺った。
(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)

江戸時代 盛んだった富士講
太子を日本の釈迦と仰いだ親鸞

聖徳太子騎馬像を8合目まで担ぎ上げて営む一座法要にはどんな歴史があるのですか。

渡辺英道氏

 わたなべ・ひでみち 昭和25年、山梨県富士吉田市生まれ。如来寺の第28世で、龍谷大学を卒業し、平成3年に住職に就任した。先代住職の父親が昭和30年に開いた新倉幼稚園の園長も兼任し、秀子夫人と始めた趣味の墨彩画は約20年のベテラン。寺では句会や茶会、納涼大会なども開いて地域との絆を深めている。

 江戸時代後期の文化8年(1811)、如来寺が懇意にしていた新宿にある富士講「大久保十三夜講」から、27歳の太子が「甲斐の黒駒(くろこま)」に乗って富士登山をしたという伝説に基づく像が寺に寄進されました。当時、富士山は神仏習合の信仰の山で、1合目から8合目まで、いろいろな宗派の寺が宗教活動をしていました。

 日本古来の山岳信仰と密教・道教が習合した修験道が神々は仏の化身とし、それまでは木花開耶姫(このはなのさくやびめ)と同一の浅間大神(あさまのおおかみ)の山とされていた富士山を密教の本尊である大日如来の山とし、富士山頂に仏の世界があると説いたことから、多くの修験者が山頂を目指すようになりました。そこで、山開きの旧暦5月28日から7月28日まで、8合目にある如来寺のお堂に像を安置し、登山者が拝めるようにしたのです。江戸時代には富士講が盛んになり、登山者が増えました。

 ところが明治初めの神仏分離令とそれに伴う廃仏毀釈(きしゃく)で、富士山は神道の山だとして8合目の寺領は没収され、さらに廃仏毀釈で日蓮の像なども破壊されました。それが近年、富士講の研究者で門徒の郷土史家・和光弘さんの提案を受け、門徒や地域の人たちの協力により平成21年、約100年ぶりに行事を復活させたのです。

甲斐の黒駒伝説とは?

 太子は推古天皇6年(598年)4月に諸国から献上された数百頭の馬の中から甲斐の黒駒を神馬だと見抜き、舎人(とねり)の調使麿(ちょうしまろ)に飼養させました。同年9月に太子が試乗すると、馬は天高く飛び上がり、太子と調使麿を連れて富士山を越え、信濃国まで至り、3日後に都へ帰ったそうです。当時、甲斐には朝廷の牧場・御牧(みまき)があり、調使氏は厩戸(うまやど)皇子の上宮王家に奉仕する渡来系氏族です。同様の話は御牧があった東国各地に残っています。

浄土真宗を開いた親鸞聖人は、仏教受容に決定的な役割を果たした太子を「和国の教主」と呼んでいます。

 浄土真宗の寺の本堂には聖徳太子の像や画像が安置されていて、太子信仰に基づく太子堂のある寺も多くあります。これは親鸞聖人が太子を日本の釈迦と仰ぎ、太子の仏徳を称えたからです。

 親鸞聖人が作った和讃の『太子奉讃』には「大慈救世聖徳皇/父のごとくにおはします/大悲救世観世音/母のごとくにおはします」とあり、幼少時に父母と別れた聖人が聖徳太子を父のように、観音菩薩を母のように慕っていたことが分かります。

 比叡山にいた29歳の時、修行に行き詰まった親鸞聖人は、太子の創建とされる京都の六角堂に百日参籠(さんろう)をしました。すると95日目の早朝、夢に太子が観音菩薩の姿で現れ、「後世(ごせ)のことは、法然上人を訪ねなさい」と言われたのです。

「女犯の夢告」もありました。

 それまで仏教には、僧侶は一切女性に近づいてはならないという厳しい戒律がありました。しかし、色と欲から生まれた人間が、色と欲から離れ切れるかという矛盾に悶(もだ)え苦しんでいた親鸞聖人の夢に現れた観音菩薩は、「そなたがこれまでの因縁によって、たとえ女犯があっても、私(観音)が玉女の姿となって肉体の交わりを受けよう。そして、臨終には導いて極楽に生まれさせよう。これは私の誓願である。すべての人に説き聞かせなさい」と告げたのです。これは男女にかかわらず、すべての人はありのままの姿で救われるのが阿弥陀仏の救済であるという浄土真宗の教えの核心で、この夢告がきっかけとなり、親鸞聖人は後に肉食妻帯を決意することになりました。

甲州との関わりは?

 甲州市の浄土真宗萬福寺には調使麿の一族が開いた寺で、富士山から飛び降りた甲斐の黒駒が蹄(ひづめ)の跡を残したとされる馬蹄石があります。茨城で布教していた親鸞聖人が13世紀前半に、太子の足跡を慕って萬福寺を訪れたことから、甲州一帯に浄土真宗が広まったと言われています。その頃、如来寺も住職が親鸞聖人に帰依し、真言宗から浄土真宗に改宗しました。

今年、登山したのは31人と過去最高でした。

 うち10人は如来寺付設の新倉(あらくら)幼稚園卒園生の小中学生で、この行事が若い世代に受け継がれようとしています。祖父母に次男、孫3人と友達1人で計7人の家族や、ネットで知り飛行機とバスを乗り継いでやって来た大阪・泉大津市の中年夫婦もいました。

 早朝、寺に集まった一行は午前5時半から同寺本堂で朝のお勤めをし、6時にマイクロバスで出発。車内で檀家(だんか)で登山家の小野武俊さんから登山についての諸注意がありました。

 富士山5合目に到着すると一行は準備体操をし、そろいの法被をまとい、金剛杖を手に、2列になって7時半、富士吉田口から登り始めました。銅像は、聖徳太子と黒駒、手綱を引く調使麿を二つの箱に収め、それぞれ若者が担ぎ上げました。

 しばらくは樹木が茂る山道が続き、次第に高山植物だけの風景になり、7合目からは険しい岩場になります。太陽が降り注ぎ汗が背中ににじみましたが、時折、下界から霧が吹き上げてきて、心地よく登れました。

 一行は11時に8合目にたどり着き、山小屋「太子館」横の広場にテーブルを置き、仮の荘厳壇(しょうごんだん)を設営して太子像を安置、花を供え、私の先導で一同が『太子奉讃』を読経しました。外国人の登山者たちが珍しそうに見ていました。