今上陛下と光格天皇
維新への道拓いた名君
生田神社名誉宮司 加藤隆久氏に聞く
今上陛下が生前譲位(退位)のお考えをお持ちのことが知られるようになってから、一番近くに生前譲位した江戸時代後期の光格天皇が注目されている。傍系の閑院宮家から即位したこともあってか、光格天皇は理念的な天皇を求める傾向が強く、中世以来絶えていた朝廷儀礼の再興、天皇の権威の回復に熱心で、近代皇室制度へ移行する起点になったとされる。明治の朝廷儀礼に詳しく、「光格天皇御即位礼式絵図」を所蔵し、毎年、新春には掲げ眺めているという生田神社名誉宮司の加藤隆久師に話を伺った。
(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)
江戸時代後期に生前譲位
近代皇室制度の起点に
光格天皇がここ数年、脚光を浴びています。
かとう・たかひさ 昭和9年岡山市生まれ、國學院大學大学院神道学専攻修士課程修了。神戸女子大学教授などを経て生田神社宮司になり現在は名誉宮司。神社本庁長老、神戸芸術文化会議議長、神戸史談会会長、神仏霊場会顧問。文学博士。著書は『よみがえりの社と祭りのこころ』(戎光祥出版)『神と人との出会い―わが心の自叙伝―』(エピック)など。
私は毎年、正月に掲げていた「光格天皇御即位礼式絵図」を、今年はとりわけ麗しく眺めたものです。
平成29年(2017)1月24日付産経新聞には、今上陛下が平成22年頃に生前譲位のご意向を示された当初、最後に譲位された光格天皇の事例を調べるように宮内庁に伝えられたとあります。同年10月21日の読売新聞朝刊にも「天皇の退位は1817年の光格天皇以来約200年ぶり」と「光格天皇以来」が枕詞(まくらことば)のように報道されていました。
今上陛下は昨年8月8日、「象徴としてのお務めについて」とされる11分のビデオメッセージを発表され、ご退位のご意向をにじませられました。
それは天皇の生前退位を認めていない現行の皇室典範に抵触し、憲法の問題も絡んで論議を呼びました。しかし、世論調査等では国民の圧倒的多数が退位を支持し、結局、平成29年(2017)6月9日に成立した「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」の附則第1条により、現天皇に限り退位が可能になりました。そして平成31年4月末日の退位が決定され、退位後の称号は上皇と決められました。これも光格天皇(上皇)以来のことです。
今上陛下が平成22年秋頃、宮内庁に光格天皇についての調査を求めたことが新聞記者らの間で話題になり、歴史をたどると生前退位が200年前の光格天皇の譲位であることが知られるようになりました。こうして光格天皇は埋もれていた歴史の片隅から呼び出され、にわかに脚光を浴びることになりました。
今上陛下と光格天皇との関わりは。
現天皇家は実は光格天皇から始まる血統を引き継いで来られました。江戸時代は皇位を天皇である父親から実子へと嗣いで来られましたが、光格天皇は先代の後桃園天皇の実子ではなく、閑院宮という宮家にお生まれになり、天皇の養子になられて皇位に就かれました。光格天皇から仁孝、孝明、明治、大正、昭和と嗣いで今上陛下に至っています。つまり今上陛下は光格天皇から始まるお血筋です。光格天皇と現天皇家とは深いご縁を持っておられるのです。
またご在位が38年というのは、江戸時代はもとより歴代でも異例の長さです。ご在任中はさまざまな朝儀や神事を再興、復古されることにより、朝廷の再興に努められ、そのためには江戸幕府に強い姿勢を取る、時には軋轢を起こしながらも奮闘されました。その結果、天皇・朝廷の権威が高まり、幕末になると孫に当たる孝明天皇が高い権威を帯び、幕府と反幕府勢力の双方から担がれ、政治の頂点に浮上したのです。
諸政治勢力による激しい政治・軍事闘争は、明治維新により近代皇室制度を生み出すことに帰結しました。したがって、光格天皇は明治維新、近代皇室制度の起点を生み出した重要なお方であったと言えます。
光格天皇のご事跡は?
特筆すべきは朝儀および神事の再興・復古です。始められたのは天明6年(1786)頃からで、天明の大飢饉(ききん)がピークを迎えていた時期です。それだけではなく、天変地異が相次ぎ、幕府政治も混乱し、混沌とした状況が生まれ社会不安が高まっていました。飢饉のため万民は過酷な政治に苦しみ、天が幕府の不徳を憎んで災害をもたらしたとして、謀反の勃発も予測されていました。天明7年6月、光格天皇が幕府に窮民救済を要請されたのは、このような意識からかもしれません。
光格天皇は寛政12年(1800)8月に石清水八幡宮と賀茂社(上賀茂神社と下鴨神社)の臨時祭復興の叡慮(えいりょ)を表明されました。その「宸筆(しんぴつ)御沙汰書」で光格天皇は「不肖不徳であるが、上は天照大神をはじめとする神々と天皇家の先祖や仏の陰からの庇護(ひご)により、また、関白や幕府の文官・武官の補佐により在位し、万民の豊楽と安穏を願い祈ることを務めとする」と述べておられ、ここから天皇意識の強さがうかがえます。
光格天皇は歴代天皇の中でも皇統意識の強い天皇で、般若心経や阿弥陀経などの写経、阿弥陀仏の名号を書かれたあとに「神武百二十世兼仁(ともひと)掌三礼」や「大日本国天皇兼仁合掌敬白」と自署され、神武天皇から数えて第120代の皇統に連なる「大日本国の天皇」の意識を表明されています。
光格天皇は天明6年11月21日、その年に収穫された新穀を神に捧げ、共に召し上がる、朝廷の最も重要な祭祀(さいし)の新嘗祭を、神嘉殿で親祭されています。
第二は、高御座(たかみくら玉座)で、旧儀のように辰と巳の両日も悠紀殿(ゆきでん)、主基殿(すきでん)御帳に設けることにし、そのため高御座に継壇(つぎだん)の必要なことを指示されています。第三は五穀豊穣(ほうじょう)を祈る田舞の再興です。
光格天皇は和歌の達人でもありました。
江戸時代の天皇にとって和歌の修学は重要でした。天皇が身に付けるべきは芸能で、その第一は学問、第二が管弦(音楽)、和歌はその他の芸能の一つとされています。光格天皇は16歳で学問を志され、併せて和歌と管弦の集中的教育と鍛錬を受けられています。
今上陛下が譲位されるに当たり、光格天皇はあらゆる面で模範とすべき名君であられたのではないでしょうか。





