富士山の信仰、神話、歴史
民俗宗教史家 菅田正昭氏に聞く
火の中で出産したコノハナサクヤヒメ
天地開闢からの神々しい山
きょうは建国記念の日。国の始まりを記した史書に古事記や日本書紀、万葉集があり、それらの史書では富士山が歌に詠まれ、描かれ、称(たた)えられてきました。いわば日本人の心を形成した象徴的な霊峰。この名山にまつわる信仰、神話、さらには富士講についてまで、民俗宗教史家の菅田正昭さんに聞きました。
(聞き手=増子耕一)
恵み与え災厄もたらす
断食入定した食行身禄
富士山は形が美しく、遠くからも望め、太古から霊峰と称えられてきました。高さも日本一で、日本を象徴する山です。
「コニーデ型の富士山の形に似た山は全国にもたくさんあります。320以上と言われています。ぼくがかつて住んでいた青ヶ島の隣、といっても、60㌔以上も離れていますが、八丈島には八丈富士(854㍍)があります。青ヶ島から見る八丈富士は、本家に劣らぬ秀麗さを持っています。
選挙の時の政党のポスターを見ると、共産党も使ったことがあるし、あらゆる政党が使ってきた。そういう意味でも日本の象徴といえます。ちなみに、明治の国粋主義の地理学者・志賀重昂(しがしげたか)(1863~1927)は名著の誉れ高い『日本風景論』で〈「名山」中の最「名山」を富士山となす〉と、その「秀霊」性を賛美しています」
この山がどのように日本人の精神を形成してきたのか、古代人の心にどう映ったのか、お話を伺いたい。
「フジの語源はアイヌ語説を含めて諸説があります。志賀重昂は〈「富士」は蝦夷(えぞ)語「火ノ女主(ふじ)」より由来す〉と言っています。一般的に言われているのは、フジは不死につながり、古事記や日本書紀にある信仰と絡んできます。富士山の浅間神社はコノハナ〔ノ〕サクヤヒメ(記・木花之佐久夜毘賣、紀・木花開耶姫)を祀(まつ)っているけれど、コノハナサクヤヒメがどこの出身なのかというと九州です。ホツマツタエなどの超古代史文献では富士山に結び付けていますが…」
コノハナサクヤヒメはサクラのシンボルでもあります。
「そうです。古事記や日本書紀によると、ニニギノミコトと結婚されて、その子孫が現在の皇室へと繋(つな)がってきます。コノハナサクヤヒメはオオヤマツミ(記・大山津見、紀・大山祇)神の娘で、彼にはもう一人、イワナガヒメ(記・岩長比賣、紀・磐長姫)という娘もいた。大山祇はこの姉のイワナガヒメと妹コノハナサクヤヒメの二人をニニギに差し出した。ところが姉は不美人で、ニニギは麗しき美人の妹だけをもらい、姉を送り返した。大山祇はがっかりし、イワナガヒメをもらっていれば命が長らえるが、妹一人だけではニニギノミコトは桜の花が散るように命をなくしてしまうだろうと落胆する。
その後、コノハナサクヤヒメは1回の交わりで妊娠したが、ニニギはヒメの貞操を疑った。そこで、ヒメは身の潔白を証明するため、産屋に火を付ける。潔白であれば無事だという、一種の誓約(ウケヒ)です。こうして、コノハナサクヤヒメはホデリ(海幸彦)、ホスセリ、ホヲリ(山幸彦)の三人を生みます。このホヲリ(火遠理)の孫が神武天皇です。その時の産屋が燃えている状態を富士山の噴火と結び付けて、コノハナサクヤヒメが富士山の神になっていったようです。火の中で出産したので火山の神になる。しかも、父神の大山祇はすべての山々を取り仕切る神です。しかし、浅間神社の中には姉のイワナガヒメを祀った神社もあるのです。近くの伊豆半島にもある。静岡県賀茂郡松崎町雲見の浅間神社で、式内・伊豆国賀茂郡・伊波乃比咩命神社に比定されています」
万葉集には富士山を称えた歌が幾つもあります。
「特に、山部赤人の歌は富士山信仰と絡んできます。〈天地の 分れし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 富士の高嶺を 天の原 振り放け見れば 渡る日の 影も隠らひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくそ 雪は降りける 語り継ぎ 言い継ぎ行かむ 富士の高嶺は〉。すなわち、天地開闢(かいびゃく)の時からそびえ立っていた。その神々しさを詠んだ実に、格調の高い歌ですね。その反歌は有名な〈田子の浦ゆうち出でて見ればま白にそ富士の高嶺に雪は降りける〉。面白いのは6月15日に最後の雪が降って、その晩、初雪が降る。だから一年中、頂上は真っ白。あるいは、燃ゆる火が雪を消すとか、大和国の鎮めの神とか、日本の宝などと、見ても飽きないと称えられてきました。
日本人の信仰にも影響を与えています。富士宮市にある日蓮正宗大石寺の正式な名称は、多宝富士大日蓮華山大石寺です。富士の上に『多宝』という名称を冠し、しかも大日は大日如来です。『大日蓮』ではないのです。大日如来を祀った蓮華の山なのです。富士山信仰が仏教に中にも入っていることの一つの証拠です。
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「東京都内ではあちこちに富士塚があり、注意深く見ると、富士塚がない所でも富士講関係の石碑があったりします。千葉県や神奈川県の各地の神社もそうですが、宝永の噴火前後の年号が入った碑がいっぱいある。後になって建立したのもあるようです。噴火の後には飢饉(ききん)があり、大変なことになる。当時の人々にとって富士山は恵みを与えてくれる一方、一歩間違えば災厄をもたらす。神社へ行けばそれがよく分かります」
富士吉田市歴史民俗博物館に行きますと、壁面を飾る大きな写真があり、山頂の火口内部が写されています。「内院拝所」と題されている。浅間神社のご神体です。富士吉田市の1合目から5合目まで歩いてみると、江戸時代の遺跡がたくさん残っていて、昔に戻ったみたいな気分になります。
「富士講はもともと仙元大菩薩の信仰でした。仙元大菩薩はほとんど大日如来と一体化しています。東京各地の富士塚も元は神仏習合でしたが、神社を整備する時、仏教的なものを取り除いてしまった。浅間系の神社に行くと、整理した時、捨てられなくて社殿の背後や脇の方に、古い石碑や壊れた鳥居などの破片を集めた場所があり、昔の信仰を見ることができます。一見、浅間系や富士講に関係ない所でも境内に富士講特有の異体文字があったりして、ビックリさせられることがあります」
ところで戦後、不二日の本教壇をつくった故・元木素風(1894~1998)さんは、富士登山を心の糧としてきた人で、大正15年に第1回建国祭が開かれた時の準備委員で、理事の一人でした。富士山をうたった歌が500首あり、その中に「不二四十七音」という歌がある。〈あさぼらけ ふじのかむやま いろはえて くもひとつなき みねうへに われおりたちぬ ゐせゆ よをすめるこゑぞ〉。一種の啓示です。
「その本、家にあります。元木さんからは何通も手紙を頂きました。日の本教壇は丸山教の分派で、丸山教は扶桑教から出ています。元木さんは戦後、丸山教が左傾化するのに耐えられず独立したのです。毎年、相模湖の近くの山でお祭りをし、ぼくも行ったことがある。キリスト教のことも詳しい博学な人でした。94歳の昭和62年8月には、60回目の富士登拝の神行を達成されています」
今、富士講はどうなのですか。
「青ヶ島に天明年間に噴火してできた丸山があります。この山も小さな富士山型で祠(ほこら)ですが、山頂の火口の周りには浅間神社が祀られています。富士山信仰は民間信仰ですが、世界遺産になって富士山は注目されているのに、富士講は小さくなってしまいました。例えば、横浜の鶴見神社本殿の後ろには古墳があって、その頂上に小さな浅間神社があります。昔は大田区の羽田地区からもお参りに来ていましたし、地元だと子安の富士講の人たちがお参りに来ていましたが、10年前ごろから来なくなった。毎年6月1日に山開きをするのですが、富士講は減っているようです。もちろん、教派神道系の実行教、扶桑教、丸山教などは活動しています。
富士講といえば、食行身禄(じきぎょうみろく)として知られた伊藤伊兵衛の存在は大です。享保18(1733)年63歳の時、駒込の自宅を出発して、富士山の7合目5勺(しゃく)目(現・吉田口8合目)の烏帽子岩で救世のための断食をして、35日目には入定した。その翌日には、江戸でかわら版が出されて読まれました。世の中が良くなるだろうと期待を持ったのです。
富士山は弥勒信仰と結び付いて、世直しのシンボルともなりました。弥勒信仰は将来、救世主が現れるだろうという信仰なのですから。
富士山は雪が降って、一年中、雪があり、噴火しては消え、また雪が降ってと、再生を象徴していると思います。今年は新しい天皇陛下が即位される。ここでも命の再生、新生が繰り返されています」








