秩父神社における神仏習合

共存する日本的な信仰

秩父神社宮司 薗田 稔氏に聞く

 毎年12月に行われる例祭「秩父夜祭」がユネスコ無形文化遺産に登録された埼玉県秩父市の秩父神社は、秩父地方の総鎮守。もともとは武甲山(ぶこうさん)を遥拝する聖地で、豪族の力が弱まるにつれ衰微したが、鎌倉時代に桓武平氏の守護神・妙見菩薩と習合し、発展するようになる。秩父神社の神仏習合の歴史を薗田稔宮司に伺った。
(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)

ローカル神に世界観裏付け
今でも家には仏壇と神棚

神仏習合にもいろいろな形があり、秩父神社は妙見信仰と習合しています。

薗田 稔氏

 そのだ・みのる 昭和11年東京都生まれ。東京大学大学院宗教学博士課程修了。國學院大學文学部・同大学院教授を経て京都大学総合人間学部教授など歴任。宗教学や民俗学の視点から神道、日本宗教史を研究。現在、秩父神社宮司、京都大学名誉教授。主著は『神道―日本の民族宗教』『誰でもの神道―宗教の日本的可能性』(以上、弘文堂)など。

 秩父神社が神社の北東に祀(まつ)られていた妙見菩薩を合祀(ごうし)したのは1236年です。その3年前に、秩父大菩薩が導師になり、13人で7日間かけて33カ所を回り、秩父観音霊場を成立させたとの伝承があります。

 最初に妙見菩薩が秩父に鎮座したのは秩父神社ではなく、秩父市北部の宮地にあった広見寺(こうけんじ)です。宮地という地名は妙見大菩薩を迎えたことから付けられたとされ、宮地町は秩父夜祭に日月万燈(まんとう)を出し、山車も持つ古い町です。

 天慶年間(938~947年)に平将門と常陸・鎮守府将軍の平国香(たいらのくにか)が戦った上野国(こうずけのくに)染谷川の合戦で、国香に加勢した桓武平氏の平良文が、群馬郡花園村に鎮まる妙見菩薩の加護を得て、将門の軍勢を打ち破ったことから妙見菩薩を厚く信仰し、後年秩父に居を構えた際、花園村の妙見社を勧請(かんじょう)しました。それ以来、桓武平氏の一門である秩父平氏は妙見菩薩を守護神として祀るようになります。

 そもそも妙見は素晴らしく現れるという意味で、仏教が中国の星辰(せいしん)信仰と習合した、北極星を神とする道教色の強い菩薩で、現世利益が強いのが特色です。それが日本に入り、戦国時代の武将に信仰されたのは、北極星をめぐる北斗七星の7番目の星が破軍星(はぐんせい)という名称だったことで、祈れば敵に勝つと信じられたからです。武士の信仰では源氏が氏神とした八幡神が知られていますが、秩父平氏は妙見菩薩を戦勝の神として祀りました。

それが秩父神社に習合したのは。

 1235年に妙見堂が落雷で炎上したので、秩父神社の境内に遷(うつ)し、妙見社としました。それを機縁に秩父神社に合祀し、本社に妙見を祀り、秩父神社はその摂社になったのです。その後、1567年の武田軍の侵入で全社殿が焼かれました。

 室町幕府から戦国時代になると、武士団たちの信仰の対象となることが神社存続の上でも必要になりました。以後、妙見菩薩は武士団の守護神として展開し、東北にまで信仰が広まり、関東では秩父平氏の進出に応じて勢力を形成します。

 豊臣秀吉が小田原攻めに勝利すると、1590年に徳川家康は転封(てんぽう)された関東に下向し、関東の開発に取り組む中で、秩父に立ち寄った時、ほかの主要な社寺と同じように50石の朱印領を与えました。

 家康がそれほど力を入れたのは、家康が寅の年、寅の日、寅の刻生まれのため、秩父神社に伝わる「虎の懺法(せんぽう)」という懺悔(ざんげ)の祈祷法を気に入ったからで、拝殿正面に4面の「子宝・子育ての虎」の彫刻を、関東郡代を務めた伊奈半左エ門に命じ造らせています。

天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)が妙見菩薩と習合したのは。

 妙見菩薩が北極星と北斗七星で、天の中心を制する星であることから、それを神道的に読み替え、天之御中主神だとしたわけです。神話的には宇宙軸を意味し、それをめぐってイザナミとイザナギが国産みをします。

 天之御中主神はイザナミ・イザナギの神話では中心軸としての天沼矛(あめのぬぼこ)に当たり、やや観念的な神です。夫婦神が天浮橋(あまのうきはし)に立ち、天沼矛で渾沌(こんとん)とした大地をかき混ぜたところ、矛から滴り落ちたものが積もって淤能碁呂島(おのごろじま)となり、夫婦神はその島で結婚し、大八島(おおやしま)と神々を産んでいきます。

明治初めの神仏判然令で混乱はなかったのですか。

 それは起きませんでした。ほかの神社と違い、妙見社は神宮寺ではなく、広見寺も別当寺ではなく、僧侶が神社を支配することもなかったからです。薗田家が神主家として支配し、社領も管理していました。

 幕末まで秩父神社は母屋を妙見大菩薩に取られ、脇に追いやられた形になっていたので、判然令でそれを入れ替え、元に戻しただけで、トラブルはありませんでした。

 秩父は妙見の町で、秩父の夜祭も最近まで妙見祭と呼ばれていました。今でも妙見の御神像など頒布していますが、要するに権現思想の例で、神の現れ方の問題です。

 神道では、神は姿がなく、山や岩、木など具体的なものに宿るという論理で、物としての現れが権現です。それに対して仏教はもともと法で、普遍的な原理です。それが具体的な文化になるためには、やはり形を見せないといけない。真言宗ですと大日如来を中心として諸仏が曼荼羅(まんだら)に描かれ、天台宗なら薬師如来、浄土宗なら阿弥陀(あみだ)如来などの形にならないと、法の世界観が民衆に伝わらないのです。

 ですから、神道と仏教は互いにあまり違和感がなく、自然に習合していったのだと思います。仏教が興隆してくると、日本の八百万の神々は、実はさまざまな仏が化身として日本の地に現れた権現であるとする本地垂迹(ほんじすいじゃく)説が考え出されます。そうして神仏が共存する日本的な信仰が形成されたのです。

 古来から秩父神社が祀ってきた神はローカルな神ですが、その背後に妙見が入ったことで、宇宙的な世界観に裏付けされました。妙見は宇宙の中心である北極星なので、宇宙の中心とつながることになります。

 具体的には、武甲山(ぶこうざん)と里宮である秩父神社が原始的な神道の形で、そこに妙見が加わることで天空につながり、普遍的なものに広がります。個別ローカルな信仰体制が、普遍的な信仰に発展したのが神仏習合で、互いに違和感がなかったのです。今でも家の中に仏壇と神棚のあるのが自然です。