明治の国づくりと神道、不可欠だった精神的支柱

生田神社名誉宮司 加藤隆久氏に聞く

 明治維新150年の今年、明治の国づくりへの関心が高まっている。そこから、今の日本を見直そうとの思いもあろう。そこで、明治の国づくりと神道について加藤隆久・生田神社名誉宮司に伺った。
(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)

津和野藩主従が貢献
復古と維新、同時に動く

幕末・維新の混乱の中、明治日本の国づくりが成功した大きな要因は、天皇を中心にした近代国家の形を早期に整えたことで、それに最も貢献したのが石見津和野藩です。

加藤隆久氏

 かとう・たかひさ 昭和9年岡山市生まれ、國學院大學大学院神道学専攻修士課程修了。神戸女子大学教授などを経て生田神社宮司となり、現在は名誉宮司。神社本庁長老、神戸芸術文化会議議長、神戸史談会会長、神仏霊場会顧問。

 従来の維新史は薩長土肥が主役ですが、それは主として政治、外交、軍事、経済においてです。しかし、国づくりで重要なのは国民が拠(よ)って立つところの精神であり、それが広く国民に共有されることです。

 当時、日本がモデルとした欧米列強は政教分離を建前としながら、いわゆる市民宗教としてキリスト教が普及していました。ところが日本には、それに類するような宗教はなく、国民精神の支柱になれそうなのは、歴史的な天皇への崇拝心でした。

多くの志士たちが天皇を玉(ぎょく)と呼び、玉を手に入れた方が勝つという言い方さえありました。

 それを国学の研究から思想的に深め、近代国家にふさわしい神道に高めたのが山陰の小藩、津和野藩の主従です。津和野藩は国学を藩学の首位に置き、藩内外に神道思想の浸透を図りました。藩主亀井茲監(これみ)は領内で社寺制度の改革を断行し、神仏混同を厳禁して別当社僧を還俗させ、神葬祭を行わせました。明治初めの神仏分離、廃仏毀釈(きしゃく)の先駆けで、これに注目したのが岩倉具視です。新政府で亀井茲監は参与に任じられ、以後、神祇事務局判事などを歴任し、宗教関係の行政を担当しました。

加藤さんが博士論文に津和野教学を選んだのは?

 昭和35年の春、父が偶然見つけた、岡熊臣(くまおみ)が書いた津和野藩校・養老館の学則を見て感銘したのがきっかけです。当時、大半の藩校は官学の朱子学を教えていたのに、津和野藩校では国学を中心に据えていました。熊臣の子孫の岡勝氏(富長山八幡宮宮司)から岡家の資料提供を受け、岡熊臣と神道津和野教学の研究に取り組むことになったのです。

岡熊臣とは?

 津和野にある富長山八幡宮の神官の家に生まれ、本居宣長の影響で国学に傾倒した人です。後に津和野藩校・養老館の初代国学教師になり、明治政府の神社行政の中核になる人物を多数輩出しました。森鴎外や西洋哲学の西周も養老館に学んでいます。

維新の回天をもたらしたのが慶応3年(1867)10月14日の大政奉還で武士の政権は終わります。朝廷は諸侯会議により新体制を定めようとしますが、徳川慶喜はその中でも主導権を握ろうとしていました。これに対して討幕派が、これからは天皇中心の政治を行うと宣言したのが同年12月9日の「王政復古の大号令」です。

 王政復古は祭政一致で、「現人神である天皇が自ら国を統べる」という大方針を打ち出すことで、短期間のうちに旧時代の権威や秩序を一新させた結果、明治維新が成功したのです。

 王政復古は王政維新とも言われ、保守主義の復古と進歩主義の維新が同時に活動し、明治の大改革が成ったのです。後世からそれを批判するのは容易ですが、当時の混乱を収拾する道はそれ以外になかったのでしょう。

 実際に王政復古の「大号令文案」の骨子を作成したのは、津和野藩の国学者・大国隆正の門人で「岩倉具視の懐刀」と言われた玉松操とされます。隆正は、茲監に尊王攘夷の思想を説き、「国学を本学と称すべし」と進言し、養老館の国学を本学と改めさせました。後に福羽美静(びせい)も養老館教授に登用されています。

いつの御代(みよ)への復古を目指したのですか?

 これについては当時、大きな議論がありました。天皇親政の時代というと後白河天皇と高倉天皇の時代が考えられますが、政治の実権は武士である平家に握られており、やがて源平の争乱が起こります。それ以前、平安時代中期の「延喜・天暦の治」は、醍醐・村上天皇の治世で聖代(せいだい)と称せられましたが、実質的には藤原氏による摂関政治が始まっていました。

 平安京を定めた桓武天皇や律令国家を目指した天智天皇、大宝律令の制定を命じた天武天皇と議論が百出し、結局は、初代神武天皇の古(いにしえ)に返る心がなければ大業は成就しないということで朝議が一致したのです。神武天皇の時代には公卿も武士もなく、仏教や儒教も伝来していませんでしたから。

 神武創業論は一種の時代思潮で、大塩平八郎の乱の檄文(げきぶん)にもあります。その内容を思想的に提示し、政治的に王政復古論に結びつけたのは大国隆正です。

 王政復古の前の11月23日には、従来の官制を廃し、政務をまとめて天皇を補佐する総裁、事務の監督をする議定、分担して事務を行う参与の三職を置くことも決めています。新政府に神祇官が再興され、亀井茲監が事務局判事に、福羽美静が判事に就任します。神祇官は太政官を指導する立場で、山陰の小藩が日本政治の中枢に位置することになったのです。

課題になったのは明治天皇の即位礼の形式です。

 東北で戊辰戦争が続いている8月27日に、明治天皇の即位の大礼が京都御所の紫宸殿で行われました。その担当者に任命されたのが亀井茲監と福羽美静らと有職故実に詳しい公家です。

 岩倉具視は唐の模倣ではなく、王政維新にふさわしい典儀を策定するよう命じました。茲監は美静に調査に当たらせ、唐風の調度品を廃止し、礼服には平安時代の束帶が使用されました。

 注目すべきは、紫宸殿の南庭中央に直径1メートル以上の地球儀が据えられたことです。これは元水戸藩主の徳川斉昭が作らせ、皇威を海外にも輝かすという開国進取の上奏文と共に奉献したものです。