母に教えられた「愛する」生き方

「おかげさま」で幸せに

ペルシャパレス社長 マスウド・ソバハニ氏に聞く

 来日して32年、アメリカ国籍のペルシャ人、マスウド・ソバハニ氏の口癖は「おかげさまで」。バハイ教徒のため弾圧されるイランを出てアメリカで学び、結婚を機に日本に移住。「ご縁」に導かれて善き日本人と出会い、ペルシャ絨毯(じゅうたん)の貿易で成功した半生を伺った。
(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)

「嫌いな人、憎い人がいない」
昔から繋がるイランと日本

祖国を離れた理由の一つはバハイ教だったからですね。

マスウド・ソバハニ氏

 Masoud・Sobhani 1955年、イランのテヘラン生まれ。アメリカの大学を卒業し、日本留学中のイラン人女性との結婚を機に来日。高松市に住み、脇信男市長らの応援でペルシャ絨毯の会社を設立。高松東ロータリークラブ会長を務め、市の国際交流にも貢献。著書に『憎まない』(ブックマン社)がある。

 バハイ教は19世紀半ばにイランで興った一神教で、イランでは初期から布教を禁止されていました。イランでは99%がイスラム教徒ですから、イラン革命以前でも異教徒の私は小学校でよくいじめられました。「不信仰なやつをいじめると天国へ行ける」とけしかけるイスラム教指導者もいたからです。校長先生から訳もなく木の棒で叩かれたこともあります。

 悔し涙を流しながら家に帰ると、母が抱きしめて、右の耳元で「愛しなさい」とささやくのです。「そんなことできない」と抵抗すると、母はじっと私の顔を見詰め、左の耳元で、また「愛しなさい」と言うのです。何度もそれを繰り返すので、私はいつしか涙も乾き、「はい」とうなずきます。すると、不思議に憎しみが消え、翌日も学校へ行く力が湧いてきたのです。おかげさまで、私には嫌いな人、憎い人がいません。父になった私は愛する娘と息子に、同じようにささやいています。

アメリカに渡ったのは?

 1955年にテヘランで私が生まれた1カ月後に、父は古美術商をしていた兄弟3人と渡米し、ニューヨークに事務所を構えました。当時、アメリカとイランのパハラビ国王はよい関係で、往来は自由でした。

 1969年、小学校を卒業して数日後、父とニューヨークに来ました。イランには徴兵制があり、15歳になると出国できなくなる決まりでした。父は息子たちが小学校を卒業したタイミングで渡米させたのです。私は6人兄弟の4番目で、次兄と3番目の兄も渡米していました。父は「ニューヨークの学校で学んでから、好きなところに行きなさい」と言ってくれました。

 私は移民の多いマンハッタンの公立ハイスクールに通い始めました。いろいろな肌の色の人がいて、こんな自由があったのかとほっとしました。

1979年にイラン革命が起きます。

 私の妻ナヒードは当時、日本に留学していましたが、バハイ教徒だったので帰国できなくなりました。私が来日するようになったのは85年夏、ハワイで開かれた「バハイ教世界ユース大会」で彼女と出会ったからです。大学を出た私は、亡くなった父の遺産でラスベガスに家を買い、そこで不動産会社を経営していました。81年に母が亡くなったのを機にハワイに支店をつくり、引っ越しました。

 大会のスタッフとして空港にナヒードを出迎えた時、私が結婚するのはこの人だと直感し、4日後にプロポーズ。彼女はびっくりしながら受け入れてくれたのですが、日本で一緒に住むことが条件。彼女はイラン・ジャパン石油化学で通訳として1年間働いた後、革命で会社が活動できなくなり、関連の三井造船で働いていたのです。彼女が「英語を教えれば日本で暮らせる」と言うので、事業を整理し、86年に伊丹空港に着きました。

高松に住んだのは?

 妻の身元保証人だった奈良県大和郡山市の吉田泰一郎市長にあいさつに行き、子供のころカスピ海を見て育ったので「海の見える所に住みたい」と言うと、紹介してくれたのが高松市に住む少林寺拳法の先生でした。

 先生の勧めで少林寺拳法を習うことになり、道場近くのマンションに住み、英語教室も始めました。

 やって来た生徒の一人が弁護士の秘書で、私がペルシャ絨毯の貿易会社をつくりたいと言うと有限会社を設立してくれ、さらに、観光ビザを投資経営ビザに書き替えるため、入国管理事務所に提出する資料も作ってくれました。ところが、認められないと突き返されたのです。

 そんな私を助けてくれたのが、身元保証人になった脇信男高松市長でした。市長は私たちを養子にするとまで言って入管所長を説得し、高松の家具の製造販売会社モリシゲの傘下でペルシャ絨毯を扱うことで、永住権を取ることができました。その時、脇さんが色紙に書いてくれた言葉が、「Friend in need. Friend indeed」(困った時の友が真の友)。それは今も私の宝物です。

 その後、私はペルシャパレス有限会社を設立して、ドイツでペルシャ絨毯を扱っている親戚から絨毯を輸入し、販売するようになりました。同時に、脇さんの依頼で高松市を国際都市にするお手伝いを始めました。道案内に英語を併記し、トイレを洋式にする、駅前の案内所に英語の話せる人を配置するなどです。

 また、仕事で各地に行くときには必ず市長を訪問し、さぬきうどんと脇さんの名刺を渡しました。さぬき観光大使のような役目です。

 高松市市政100周年の90年に、アメリカの姉妹都市セント・ピーターズバーグ市の市長も来て祝宴が開かれた折には、脇さんの英語のスピーチを手伝いました。「すべての国と国民は家族、お互いに和合しましょう」という一節はバハイの教えから取ったもので、脇さんはとても気に入ってくれました。

マスウドさんは「おかげさまで」が口癖ですね。

 私がそう言うと、初対面の人はちょっとびっくりした顔をします。いかにも日本人らしい言葉を外国人が口にするのが不思議なのかもしれません。

 日本人は「ご縁」を大事にしますが、イランにも「ご縁」や「おかげさま」という考え方や言葉があります。正倉院の宝物にペルシャのガラス器があり、祇園祭の山車には500年前からペルシャ絨毯のタペストリーが使われているように、古代から私たちと日本はつながっていたのでしょう。