新渡戸精神で地域おこし
遠友再興塾代表 山崎健作氏に聞く
北海道大学の前身である札幌農学校の教頭として就任したクラーク博士は、多くの教育者を輩出していった。その一人が新渡戸(にとべ)稲造であった。札幌農学校の教授として赴任してきた新渡戸は、経済的な理由などで教育を受けることのできない子供を対象にした札幌遠友夜(えんゆうや)学校を創建した。同校は昭和19年に廃校になるが、もう一度新渡戸の精神を受け継いで地域おこしをしたいと山崎健作氏は平成27年4月に遠友再興塾を設立した。新渡戸の精神と遠友再興塾のビジョンなどについて山崎代表に聞いた。(聞き手=湯朝肇・札幌支局長)
ボランティアで教育サポート
自分の国は自分たちで守る
山崎さんと遠友夜学校のつながりを教えてください。
札幌遠友夜学校(以下、遠友夜学校)は新渡戸稲造博士夫妻が明治27年、札幌中央区につくった民間の学校です。私の家から100メートルほどの所にありました。経済的理由などで教育を受けることのできない子供たちをはじめ、老若男女を対象に勉強を教えたのです。遠友夜学校の教師は新渡戸をはじめ、皆ボランティアで行っていました。遠友夜学校は昭和19年に廃校し、50年続いたのですが、私は昭和15年4月に中等部1年に入学し、半年間在学しました。その当時は30~40人が学んでいました。

やまざき・けんさく 昭和2年10月9日、札幌生まれ。昭和15年に札幌遠友夜学校に入学。昭和18年、福岡県の大刀洗陸軍飛行学校に入学。卒業後は台湾に配属され、昭和21年に日本に帰国。以後、自営業を営みながらボランティア活動に従事し、文部大臣賞などを受賞している。山崎氏は遠友夜学校での学び、そして太平洋戦争での特攻隊、そして現在に至るまで、時代の生き証人ともいえる。
札幌遠友夜学校で学ぶきっかけは何だったのですか。
先ほどお話ししたように遠友夜学校は、勉強したいが経済的な理由で学校に行けない子供が行くといわれていますが、私の場合はちょっと違っているのです。当時、私の家では父がのこぎりの目立てを仕事にしていました。私は(尋常)小学校に通っていたのですが、中学受験に際して父が北海中学(現在の北海高校)を受けさせたいと、私の担任に相談したところ、「今から頑張っても北海中学に入る見込みはない」と言われひどく失望したのです。無試験で入れる高等小学校もあったのですが、「もう学校に行かなくてもいい。のこぎりの目立てをやれ」ということになりました。ところが私の母親が「それじゃいけない。勉強は大事だ」ということで遠友夜学校を推薦してくれたのです。実は、私の母は若い頃に遠友夜学校に通っていて、卒業後、拓殖銀行(現在の北洋銀行)の電話交換手をしていました。遠友夜学校での授業内容や行事などよく知っていたので、そこに行くことを勧めたわけです。私も遠友夜学校は近くにあり、それまでもよく遊びに行っていたものですから、親近感があり母の言葉に従って入学しました。
遠友夜学校で学んだ期間は半年間ということですが、何か理由があったのでしょうか。
当時、私の家には祖母がいまして、彼女が「やはり健作は普通の学校に行った方がいい」と高等小学校に行くことを勧めたのです。私の祖母は明治6年(1874年)に札幌村(現在の札幌市東区)で生まれました。当時の北海道は開拓時代の真っ最中で、祖母は若い頃、北海道庁の赤レンガを造るために東京からきた棟梁(とうりょう)の所に奉公に行ったといいます。その祖母が父に、「健作を普通の学校にやりなさい」と言うわけです。遠友夜学校は通常の学校として認められていなかった。普通の学校に行かない者は夜の青年学校で軍事訓練を受けなければなりません。祖母としては普通の学校に行かせることを望んだのでしょう。私は別に学校に行きたいとは思わなかったのですが、祖母の勧めもあって高等小学校に移ったわけです。
ただ、振り返ってみれば遠友夜学校に行ったことは私の人生に良い影響を与えてくれたと思っています。というのも、遠友夜学校に行って友達ができた。それまで私は尋常小学校では身体が弱かったせいか友達が少なかったのです。それが遠友夜学校に入って友達ができ、高等小学校に入っても難なく友人をつくることができました。また、遠友夜学校時代には「歩け歩けの会」というサークルに入ることによって徐々に体力がついたのですが、そうした体験も貴重でした。
昭和16年当時といえば、日本は太平洋戦争が始まった頃ですね。その頃の様子はどうだったのでしょうか。
戦争が始まったものの、2年くらいすると戦局がおかしくなってきました。昭和18年のベーリング海のアッツ島でかなりの数の日本兵が玉砕しました。南方では同年4月に山本五十六(いそろく)・連合艦隊司令長官の飛行機が撃墜されるなど、非常に厳しい報道が増えてきました。札幌ではアッツ島の犠牲者を慰霊するために2600名の学生が遺骨の入っていない骨箱を持って市内を行進するということもありました。そうした状況を見て「この戦争は負けられない」ということで海軍の予科練や陸軍少年飛行兵に志願する学生が増えていったのです。私も陸軍少年飛行兵に志願しました。ただ、体力的には「歩け歩けの会」で体力がついたといっても、実際の体力がなく、飛行学校入学のための体力検査でも看護婦から「もう少し力を出して真面目にやりなさい」と怒られるほどで、「これは駄目かな」と思ったのですが、何と合格したわけです。
飛行兵となった者は皆操縦に行きたがります。飛行学校では操縦、整備と通信の分野がありますが、私は福岡県の大刀洗(たちあらい)陸軍飛行学校の配属になり、操縦を勉強することになりました。訓練は厳しいものがありました。剣道や駆け足などついて行けないわけです。しかし、落第はしなかった。
大刀洗飛行学校を卒業した後に台湾に配属が決まり、そこでは空中戦の訓練を行っていました。その時に参謀が話していたことは、米軍が中国大陸に上陸したら、日本軍は「敵はわが腹中にあり」で負けないが、米軍が台湾に上陸すれば、沖縄が危ないということで、「台湾を死守すべし」と言われていました。ところが、ある時から訓練が空中戦から敵艦に当たる特攻に変わっていったのです。それ以降、台湾から多くの兵士が特攻隊として飛んで行きました。そして、昭和20年2月16日についに私にも特攻の命令が下ったのです。心臓を冷たい手で握られた思いでした。配属先は台北市の陸軍飛行第49中隊という所でした。そこは海軍武官府の指揮下の船団護衛と潜水艦捜索をする陸軍の飛行部隊でした。
今になって思うことは、太平洋戦争はやらざるを得なかったと思います。もちろん、これからは戦争を起こしてはいけないが、ただ戦争反対と言うだけでは日本という国を守ることはできない。いざという時には、日本の国は自分たちで守るという覚悟を持っていないと他国からつけ入れられる。幸い台湾と日本の関係は今もなお良好な関係をつくっていますが、これからは単なる友好親善ではなく、運命共同体のような関係をつくっていくことが求められていると思います。
遠友再興塾は一昨年に設立されたということですが、それはどのような経緯があったのでしょうか。
私が台湾から札幌に復員してきたのが昭和21年3月7日のことでした。帰国後は父の仕事を受け継いでのこぎりの目立ての仕事をしていました。一方、この地区には当時、「子供たちに笑顔を」という言葉をキャッチフレーズとした「青空会」というボランティア団体があり、高校生が中心になってさまざまな活動を行っていたのです。私もそこに所属して企画を立てるなど、一緒にまちづくり活動を行ってきました。それが遠友再興塾がスタートする平成27年まで続いたのです。この青空会には、かつての遠友夜学校の精神がかなり受け継がれていました。というのも、戦争直後、親のいない子や飢餓で苦しむ子が多かった。そうした子供たちを助けようというのはまさに新渡戸稲造の精神でした。その青空会が平成27年に解散したものですから、何とか新渡戸の精神をこれからも受け継いでいきたい、さらにその精神を持って地域おこしをしたいという思いで遠友再興塾がスタートしたわけです。そこで私がかつて遠友夜学校で学んだことがあるということで代表に選ばれたわけです。かつての大東亜戦争では、この自分の命はささ国に捧げたものでこれっぽっちも惜しくないと思っていたのですが、これからは青少年の人々に「私の戦争体験」を語り、新しい遠友夜学校の精神を受け継ぐべく、活動を続けていきたいと考えています。





