映画『沈黙―サイレンス―』を観て

信仰、真理考えるきっかけに

帝塚山学院大学名誉教授 川上与志夫氏に聞く

 マーティン・スコセッシ監督の映画『沈黙―サイレンス―』が1月21日から公開されている。原作に自分の信仰課題と同じ問題意識を見いだし、映画化を決めてから28年、宗教対立が深刻になった時代に完成した映画をどう観たか。クリスチャンで若いころ、遠藤周作の『沈黙』に感動したという川上与志夫氏に感想を伺った。(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)

「神の沈黙」は普遍的問題
自分を深めていけば共感できる

映画の感想は?

 神の沈黙は、理不尽な試練に遭った信仰深いヨブが、神にそのわけを訊ねても神は一向に答えてくれないというヨブ記の問題でもあり、また、クリスチャン全員にとっての大きな問題でもあります。非常に普遍的な問題で、私個人にとっても深刻な問題でした。

川上与志夫

 遠藤周作の小説『沈黙』の主題は神の沈黙ですが、同時に「信仰か行為か」というマルティン・ルターに突き付けられた課題でもあります。教義を徹底的に受け継いでいくのが信仰だとすると、踏み絵を踏むことは許されません。しかし、それが尊い愛の行為であるとするならば、許されます。二律背反的なテーマが問われているわけですね。

時代は島原の乱が終わって2年後の1640年。日本で布教活動していた宣教師フェレイラが、拷問に屈して棄教したとの知らせがイエズス会に届き、弟子のロドリゴとガルペ神父が、それを確認するため日本に赴く場面から始まります。

 映画の印象は初めから暗く、重く、それが最後まで続きます。2人は隠れキリシタンの村人たちに出会い、子供に洗礼を授けたり、告解を聞いたりしました。しかしほどなく、村人たちが役人に捕まり、潮が満ちてくる岩場で十字架に縛られ、波に襲われて数日間、死の苦しみを味わう拷問にかけられます。そして、ロドリゴも手引きしたキチジローの裏切りで役人に捕まってしまいます。その経過を観ながら私は、この話に観客がどれくらい付いていけるかなと思いました。

 最初の宣教師ザビエル以来、フェレイラなどの宣教師は何のために命懸けで日本にまで来たのか。日本人が信仰している仏教は仏像を拝む偶像礼拝だから、それに対して本当の神を教えたいと考えた。また、虐げられ苦しんでいる貧しい農民たちに真の教えを伝え、現世のほかにパライソ(天国)のあることをかなり強調していたのではないか。

 映画で一つ不満を感じたのは、当時の農民や隠れキリシタンたちの厳しい生活があまり描かれていなかったことです。宣教師がいなくなってからも、村人たちはなぜ信仰を持ち続けることができたのか。さらに、彼らの信仰が、正統なカトリックを継承したものであったのか。私は土俗的に偏ったものになっていたように思うのですが。それに対し、ロドリゴたちがどう接したのかも少し描き方が足りないように感じました。日本人は隠れキリシタンについてある程度知っていますが、外国人には分かりにくいと思います。

スコセッシ監督も時代背景なども含め、冒頭にナレーションで説明するつもりだったが、それよりも、当時の日本を、ロドリゴの目に映ったのと同じくらい、ミステリアスなものにしたいと考え、あえて説明しないことにしたそうです。

 なるほどね。マイノリティな宗教が弾圧されたり、信仰が試されたりするのは、いつの時代も、どこの世界にもあることだから。

 カトリックは普遍という意味ですが、非常に独善的な側面があります。宣教師はそれを日本人に押し付けることに、あまり違和感を持たないようです。正しい教えを伝えるのだから当たり前だと思っています。しかし、受ける日本人にとっては、かなり違和感がある。遠藤周作がカトリックに対して抱いた感じも同じものですね。母から与えられた信仰は、体に合わない洋服のようなもので、それを自分に合うように仕立て直すのが、彼の葛藤に満ちた信仰の歩みとなります。

スコセッシ監督は、1988年に公開され物議をかもした映画『最後の誘惑』を見た大司教に『沈黙』を渡され、それを読んでこれは自分の問題でもあると共感し、映画化を決意したそうです。彼はシチリア移民の子で、ニューヨークのイタリア人街で生まれ、信仰と暴力が自身の課題になったと言っています。映画は原作に忠実に描かれていて、後にロドリゴが日本人名を名乗り、毎年、踏み絵を踏みながら生きるシーンまで丁寧に描いています。

 確かに考えさせられる作品です。神は沈黙していたのではなく、一緒に苦しんでいたのだということですね。神をそのようにとらえれば、踏み絵を踏んで転んでも、また戻ることができ、その時には前より強くなっている。そうやって信仰は深まっていくというのが遠藤の考えでしょう。

 ここで、棄教と背教の違いを区別する必要があります。棄教は信仰を捨て去ることですが、背教は神に背中を向けるのですが、それは捨てることではありません。私は学生時代にキリスト教に触れ、アルベルト・シュバイツァーによって信仰を深められたから、何かにつけ、イエスだったらどう反応するか、シュバイツァーだったらどうするかを考えます。しかし、その通りには行動できないので、自分なりの道を歩く。それが背教であることもあるのです。しかし、神から離れきってしまうのではなく、また戻ってくるのです。

 信仰者にとって大きな問題は、祈りは聞かれるかということです。祈りは一方通行なのか、自己満足にすぎないのか、が問題です。私は教会など公の場で、代表して祈るのはあまり好きではありません。形式的、偽善的な祈りになりがちですから。イエスは公の場で祈るな、独りで祈れと言っています。独りで祈るときにこそ、本当の心が吐露されるからです。

遠藤は伴者イエスというイエス像を示しました。

 遠藤は『死海のほとり』『イエスの生涯』『キリストの誕生』の三部作でそれを論じていますが、同伴者イエスはシュバイツァーも唱えています。イエスを神格化せず人間として見ると、「私と共に人生を歩んでくれるイエス」となります。

 私は、イエスは人間なのに、神のような生き方をしたところが素晴らしいと思います。イエスを神格化すると、自分とは関係性の薄い存在になってしまいます。

浄土真宗の阿弥陀如来の捉え方は同伴者イエスに近いし、四国遍路では同行二人と言って弘法大師空海が一緒に歩いてくださるという信仰があります。

 私はプロテスタントですが、米国で神学を学びながら同じような違和感を持ったので、牧師にならなかったというかなれなかったですね。だから、教師として自分なりに信仰・思索を深めていく道を選びました。

 一人ひとりが自分を深めていけば、普遍的な課題で共感できるということでしょうね。多様性のなかに信仰の普遍性を説くのが宣教だと思います。『沈黙』は観る人に、信仰、真理、生き方などについて考えるきっかけを作ってくれるはずです。多くの人に観てもらいたいですね。

 川上教授は20歳の時にアルベルト・シュバイツァーに出会ってキリスト教に引かれるようになり、洗礼を受けた。国際基督教大学人文科学科卒業後、1960~63年にはフルブライト留学生としてインディアナ州アンダーソン神学校に留学し、シュバイツァーの神学と倫理思想を研究した。アメリカの差別問題からインディアンに関心を持ち、インディアン名を授かるほどに彼らの暮らしにも溶け込む。大阪女学院、神戸女学院を経て69年より帝塚山学院大学教授。91~92年、米アイダホ大学客員研究員を経て、現在は帝塚山学院大学名誉教授。キリスト教神学や倫理を基に、人間らしい、自分らしい生き方をやさしく語る執筆・講演が多くの支持者を得ている。