争いのない生き方探し求道
西田天香と「懺悔」の思想
一燈園生活研究所長 村田正喜氏に聞く
宗教的覚醒の鍵になるのが、深い内省がもたらす「懺悔」の念である。懺悔を探求した代表的人物が浄土真宗の親鸞で、大正10年に『懺悔の生活』を著した一燈園の西田天香をモデルに、倉田百三は名作『出家とその弟子』を書いた。西田の懺悔の思想について、一燈園生活研究所の村田正喜所長に伺った。(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)
自己の中にどん底を見て 初めて他を赦すことができる
争いのない生き方探し求道/赤ん坊の泣き声に悟り 争わずとも食に恵まれる
村田先生と天香さんとのかかわりは?
私の生家が天香さんと同じ滋賀県長浜市内で、県立長浜農学校(現・長浜農業高等学校)の養蚕の教師をしていた父が天香さんと交流があった。
天香さんの孫の西田多戈止当番は、「自然に優しくするというのは人間の傲慢さで、むしろ“自然に許されて生きる”というのが正しい」と言っている。天香さんの懺悔の思想はどこから来るのか。
幼年期の仏教の縁が基礎になっていると思う。長浜には浄土真宗東本願寺の別院である大通寺という大きな寺があり、母に連れられてよくお寺詣りしていた。そこで聞いたお坊さんの説教が「地獄の話」で、子供心にとても恐ろしいと思ったという。天香さんは「それが私の発心の初めであったと思います」と語っている。また、「地獄極楽は決して嘘ではない。今でもそれはありうる」とも述べている。
13歳から15歳の感受性豊かな時期に長浜のキリスト教会に通い、同志社を卒業して赴任したばかりの堀貞一牧師に出会い、英語や聖書、西洋史を学んでいる。幼児期の仏教体験と少年期のキリスト教から、〝懺悔“という感覚を持つようになったのではないか。
天香さんは大正15年から昭和2年にかけてハワイの在留邦人に招かれ、ほぼ40年ぶりに堀牧師と再会した。一燈園の機関誌に寄せた一文で堀牧師は、天香さんのことを「神から遣わされて来た人である」と書いている。
天香さんは20歳の時に長浜地方の小作農家10戸を率いて北海道に渡り、開拓事業に従事したが、出資者と耕作者との間に生じた利害の対立に直面して苦悩し、開拓事業そのものを他人に委ね、長浜に引き揚げた。争いのない生き方を求めて求道する中で、根本に懺悔がなければと思うようになったのではないか。天香さんは親友に裏切られる体験もし、「底知れぬ寂しさを覚えました」と言っている。
北海道の開拓事業から離れた天香さんは、30歳の時から南禅寺の豊田毒湛老師や建仁寺の竹田黙雷老師に師事するようになる。一燈園の礼堂は禅堂の形式を取り入れたもので、食の形式や一燈園で使う用語など生活様式全般に禅宗の影響が見られる。
釈迦の成道を記念して陰暦12月1日から8日まで昼夜寝ずに坐禅する「臘八接心」に友人と参禅した時、彼が下痢で便所を汚してしまった。彼がそのまま出た後、その便所を使った毒湛老師がさっさと掃除したことに天香さんは感動した。すべての罪を自分が背負っていく姿勢を学んだのであろう。後年、便所の掃除で有名になる一燈園の願行は、このことが契機になったのかもしれない。
その後、天香さんは京都・木屋町の宿屋で、友達の送ってくれたトルストイの『我が宗教』を読み、その一節にあった「真に生きようとするには死ね」という文字にぶつかり、「よろしい、死んでしまおう」という感じになったという。天香さんは明治37年に長浜八幡神社境内の愛染明王堂で断食坐禅に入る。3日後に赤ん坊の泣き声を耳にし、それが泣きやんだ時、母に抱かれて乳を飲んでいる赤ん坊の情景が浮かび、争わずとも恵まれる食があるという生命の原点を見出し、宗教的転回を得て、路頭托鉢と下坐行に入った。
大正2年、京都・東山の鹿ケ谷に、ある婦人から建物を捧げられ、一燈園と名付けて同人たちと共同生活を営むようになる。思想家の綱島梁川がそのことを雑誌に書いて広く知られるようになり、倉田百三らが入園を希望してきた。
天香さんの「覚醒」は、『天華香洞録』にある明治37年に書かれた天香さんの冒頭の文章「我」に凝縮されていると、村田先生は見ている。
「今や余は己れの為に尽す能はず、己れのみの己れにあらざれば也。余はまた長浜の為に尽す能はず、長浜の己れにあらざればなり。(中略)我はまた世界の為に尽す能はず、世界の為の我にあらざるが故に。(中略)将して然らば、我は何ものにか尽し得べき。曰く、我は真理也。我は道也。我は宇宙也。我は我なり。(後略)」とある。もう、人間世界を超えたような心境で、本当の世界とは何か、人間の生き方はどういうものかに頭が働いているように思う。
天香さんは『懺悔の生活』で、「全体が生きるなら自分が死んでも本懐ではないか」。「“死ね”とは、迷妄から離れよとのことで、悟れば全体が自分なのである」として「壊れぬ我にぶつかり、永世の実在界に還ったよう」な安らかな気持ちになって、そのまま「路頭の人」になったという。
天香さんの生得的体験(原体験)としての宗教は浄土真宗で、教養的体験としての宗教はキリスト教、自覚的体験としての宗教は禅宗であった。神道も生得的であろうし、漢籍を通した儒教的なものも教養的体験として素地になっていた。
自己の中にどん底を見て初めて他を赦すことができる。そして、ひたすら投げ出した懺悔の中に、初めて救いの光、絶対的世界が見えてくる。それが絶対他力の世界、地力を超えた仏の世界であろう。
生活のための事業を「預かりもの」としたのは。
天香さんの家は紙問屋で繭も扱っていたが、繭の計量をごまかしたりするのを見て、商売に対する疑問があった。北海道の開拓においても、損得勘定で対立してしまう。そうした体験から、資本主義的な経済のあり方を変えなければと思っていたのではないか。
ダスキン創業者の鈴木清一は一燈園に入って托鉢求道の生活をしていたが、天香さんから実業の世界に戻るよう言われ、「道と経済の合一」を願う“祈りの経営”を追求するようになった。
天香さんは「世間のいろいろな争いは“我執”からはじまる。我執を離れて、自分を利すると同時に他をも利する方法はないものか?」と探求し、そこから、「あらゆる財物は、お光り(大自然、神、仏)からの“預かりもの”である。本来個人が所有すべきものではない」(無一物無所有)という理念のもと、お預かりしたものを正しく運用経営するという、一燈園生活の新たな機能を見いだし、これを「宣光社」と呼んだ。
私の命をはじめすべてのものを「自分のもの」とはせず、「預かりもの」とすることで、道と経済を両立させようとした。天香さんの「預かる」という考え方、生き方は深い。一燈園と宣光社は、懺悔による「無」と、預かることによる「有」の一体的な関係にあるのではないか。











