片倉小十郎と真田幸村のえにし

大坂夏の陣で両軍が激突

旧仙台藩家老白石片倉氏第16代当主、青葉神社宮司 片倉重信氏に聞く

 伊達政宗を祀(まつ)る仙台・青葉神社の片倉重信宮司は片倉家第16代当主。第2代の片倉小十郎重長は大坂夏の陣で真田幸村(信繁)ら豊臣方と戦い、激戦の後打ち破った。その際、死を覚悟した幸村から子供たちを預かり、後に家臣に取り立て、仙台真田家を興させている。不思議な縁で結ばれた真田と片倉の歴史を伺った。
(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)

小十郎に子供託した幸村/次男の子の代に真田姓

京都の屋敷が隣同士/諏訪と上田、同郷の出 

平成26年11月、近鉄南大阪線の道明寺駅前に「大坂夏の陣道明寺合戦記念石碑」が建立され、18日の除幕式に片倉小十郎重長の子孫である片倉宮司をはじめ後藤又兵衛子孫の後藤基保さん、真田幸村子孫の真田徹さんが出席しています。

片倉重信

 大坂夏の陣から400年を記念し、道明寺合戦の史実を後世に伝えるために、道明寺まちづくり協議会が建立したものです。道明寺合戦は、真田幸村軍と伊達政宗軍が激突し、伊達軍が勝利したことから大坂城落城につながる戦いです。

 感慨深い除幕式でしたが、私には合戦はどうしても大量殺人に見えてしまいます。時代の流れの中でやむを得ないことだったと言えばそれまでですが、なぜか「許せない」という思いがあるのです。

 

片倉家は代々神職でした。

 神に仕える身が、なぜ武士になって人を殺(あや)め続けたのかと思うのです。誰もが、武将なら当たり前ではないかと言います。小十郎も敵将の後藤又兵衛を討ち取り、多くの首級を挙げ「鬼の小十郎」と呼ばれました。しかし、大量の命を奪うことに罪を感じたのではないかという気がするのです。神主としては、先祖は道を外れていたのではないかという気持ちになります。

 

幸村は、合戦での小十郎の戦いぶりを見て、子供たちを託せると思ったという話があります。

 幸村公の子供たちを預かり、命を救ったという話は伝わっており、片倉の城があった白石には彼らの墓もあります。幸村の子は敵将の子ですが、政宗公は彼らをかくまい、徳川方には次男の大八は死んだとうその報告をし、名を変えて片倉家の家臣にしました。

 その後、大八の子の代になって真田姓を名乗ることを許され、仙台真田家の始祖となります。娘の阿梅(おうめ)は、後に小十郎の後妻になり、片倉家を盛り立てました。阿梅は両親の菩提寺として月心院を建立し、死後は白石の当信寺に葬られます。

 

当時、家康に対抗できるのは政宗くらいだったからではないですか。

 それもあるかもしれませんが、伊達と真田は京都の屋敷が隣同士で何かにつけて交流があったのでしょう。また、片倉家はかつて諏訪の神官で、信州上田の真田とは同郷のよしみがあったと思います。

 

片倉氏はなぜ諏訪から米沢に移ったのか?

 経緯はよく分からないのですが、米沢で成島八幡神社の神官の子として生まれたのが仙台藩片倉氏の初代小十郎景綱(かげつな)です。「小十郎」は景綱の通称で、代々の当主が踏襲しています。成島八幡は伊達家が代々崇敬していた神社です。当時、米沢は伊達の城下で、景綱は政宗の父輝宗(てるむね)の小姓として仕えるようになり、後に政宗の守役(もりやく)から近習(きんじゅう)として重用されるようになります。

 

明治7年に政宗公を祀る青葉神社が創建された折、片倉家に宮司就任の依頼があったのですか。

 それはありません。戊辰(ぼしん)戦争に敗れた片倉家は明治4年に北海道に移住し、登別温泉近くの幌別村と今の札幌市白石区を開拓していますから。片倉が白石に帰ってきたのは明治末で、父が生まれた明治42年の後です。大正の中頃、祖父が青葉神社の宮司になり、昭和16年に父が継ぎました。

 私は昭和15年の生まれで、39年に國學院大學を卒業して塩竃(しおがま)市の塩竃神社に8年ほど奉職し、青葉神社の権禰宜(ごんねぎ)になり、宮司を継いだのは昭和62年です。母の勧めで神職の資格が取れる國學院大學に行ったのですが、選んだのは神道学科ではなく史学科です。

 

太宰府天満宮の西高辻信良宮司は「神主は歴史を見ていたように語るべきだ」と言っています。

 平成になってから、政宗公の霊が付いたという女性が訪ねてきました。その女性を通じて政宗公が話し始め、「青葉神社に自分は神として祀られているが、実は神として出てくることができないから、留守している」と言うので驚きました。聞くと、「この世でたくさんの人を殺してしまったので、あの世で苦しい修行を、今もさせられている」と言うのです。そして「周りにはお前たちの先祖もいて、苦しい修行をしている」と言われたのです。だから、その人たちを「救ってほしい」というのが政宗公の頼みでした。それから、自分は青葉神社の宮司として何をすべきか真剣に考えるようになりました。

 私の手のひらに、高校生の時、竹を切っていて、倒れてきた竹を手で受け止めて切った傷があります。ふと浮かんできたのが刀で首を切られる映像で、それを手で受け止めた時に傷ができたのです。私は大坂夏の陣で大手柄を立てた2代目小十郎重長の重の字をもらっていますので、私は2代目の生まれ変わりなのかという気がしてきました。

 

歴史を語るどころか、歴史を生きていますね。

 そこで、苦しんでいる御霊(みたま)たちに詫(わ)びなければいけないという気持ちに駆られ、毎日、お詫びの行をするようになりました。心の中で御霊たちに呼びかけながら神仕えを続けたのです。途中から、最も苦しんだのは女性だと思い、特に女性へのお詫びの行を新たに始めました。

 そして、12年前の5月の青葉まつりの時、渡御(とぎょ)する神輿(みこし)の後をついて歩いていると、神輿から金色の光が出ているのが見えました。そこで、はっと思ったのは、政宗公が辛い修行を終え、神になられたのではないかということです。

 そのすぐ後、沖縄のシャーマン(ユタ)が神社に来て、「御祭神の政宗公がいよいよ神になられてよかったですね」と言ったのです。同じようなことを言ってくる人が数人現れたので、間違いないと思いました。

 すると、武将ブームが起こって、神社に歴女たちが訪ねてくるようになりました。政宗公や小十郎に憧れ、私に小十郎の子孫ですかと聞くのです。お詫びの行で、相手が恨みの思いを消し許してくれたのだなと思いました。

 

東日本大震災で青葉神社の大きな石の鳥居が倒れた時、片倉宮司は御祭神が結界を外したように思ったそうですが。

 いや、神は結界をつくりませんから、外したのは人間の方です。そこで神は、結界が外されたぞと言ってこられました。御祭神がどこにでも出て行かれるようになり、聖地が神社境内だけでなく、地域全体に広がったのです。

 

神と人が共に住むという……。

 そうした感覚で暮らすよう、生き方を変えていかないといけないのです。ここ数年で世界は大きく変わるような気がしています。

 片倉宮司の妹は真田幸村の娘と同じ梅という名前。彼女は高校卒業後、染め物を習うため京都に行き、出入りしていた男性と結婚。彼は結婚を機に母親の木村姓を名乗るようになったが、その母親の先祖の在所が真田昌幸・幸村親子が幽閉された和歌山の九度山。豊臣の家臣に木村重成という優秀な武将がいたが、大坂の陣で戦死しているので、片倉宮司は、もしかしたら幸村は、阿梅を重成に嫁がせたかったのではないか、それがかなわなかったので、今の世の2人が結ばれたのではないかと思ったと言う。宮司らしく歴史を今に生きている。