なぜ落語は廃れない?
演芸の原点は戦国の御伽衆
新宿末廣亭会長 北村幾夫氏に聞く
「噺家(はなしか)」とは、落語などの口演を職業とする落語家のことだ。ただ、人間国宝に認定された「孤高の名人」柳家小三治氏は「落語家」ではなく「噺家」であることにこだわった。そもそも、同じ出し物を繰り返す落語はなぜ、廃れることがないのか、演芸の原点はどこにあるのか、新宿末廣亭会長の北村幾夫氏に聞いた。
(聞き手=池永達夫、越尾幹彦)
旅する情報収集集団/面白い話で機嫌取りも
登場人物に同調/温かみある会話の芸
新宿3丁目の不思議な所に末廣亭はある?

きたむら・いくお 新宿末廣亭初代席亭・北村銀太郎の孫で、3代目(1999年~2011年)。昭和23年生まれ。北村氏は過去のネタ帳を多く保存しており、2008年2月14日ジュンク堂書店池袋本店でのトークショーで観客に披露したことがある。末廣亭は東京の定席としては唯一木造建築で、寄席の伝統を残した趣のある造りになっているが、北村氏は新たに建て直すことは難しいと言う。
今でこそ、映画館はシネコンになってしまったが、昔はこのあたりにも映画館がたくさんあった。日活や東宝とかの映画館街だった。また芝居小屋が並んでいたりして、それで寄席もあった。ここらあたりは遊びに行く色町みたいなもので、人が集まった。
映画館というのは潰(つぶ)れていったり、ビルの上のほうに入ったりして、ここだけぽつんと演芸場が残っているように見えるが、何もない飲み屋の一角に寄席ができたのではない。
古来から演芸はあったと思うが、もともとの原点は?
戦国時代は、御伽衆(おとぎしゅう)といってあちこち旅して情報収集して回った集団がいた。とにかく戦国時代は情報が欲しかった。どこの殿様は具合が悪いとか、長男が病気だとか、橋をかけているとか、刈り入れを急がしているとか、年貢が高くなったといった情報だ。
また、戦国時代というのは命の遣(や)り取りをして殺伐としているから、御伽衆たちは面白おかしい話をして、侍たちの機嫌を取った。
御伽衆は、そうしたリサーチ役のスパイで、演芸役も兼ねていた?
祭りの前後などにお寺の境内で踊ったり、お神楽などを始めれば、当然、人が集まっていろいろな話を聞けたりしたはずだ。そうした話を耳に入れて、次のところに行く。そういう格好をしていれば、関所なんかもあまりとがめられない。
それが世の中が落ち着いて、江戸時代になると、大阪では縁日なんかで、いろんな話をしてお客さんから小銭を投げてもらって暮らす芸人も出てきた。
大道芸人は大阪から始まった?
そうだ。江戸と大阪では、芸人の成り立ちが違う。江戸では小話なんか考え蕎麦(そば)屋の2階で、お金をとって面白い話を聴かせたのが始まりだ。
だから、江戸はまず客からお金をもらって始まる。一方の大阪は歩いている人の足を止めるところから始まる。そして、笑わせて金を取らないといけないから、芸の表現が全然違う。
上方芸能のパワーがそこにある?
そうだ。江戸の小話二つ三つといっても、すぐ飽きられてしまう。だから、講談や浪曲が元になった長い筋のある話を作ろうかといっても、だったら講談や浪曲を聴いたほうがいい。軍記物の講談は勇ましいし、浪曲のリズムは日本人の心に入ってくる。
末廣亭の演題に、浪曲はないのか?
浪曲はまずやらない。何が大変かといったら、舞台装置が大変だ。机に幕かけて、花瓶に花、ついたてをして、三味線を入れて、とても噺家みたいなわけにはいかない。それに浪曲は最低30分ないといけないが、時間は15分だけとなると、尻切れトンボでこれからいいとこなのに終わってしまうことになる。
ここでは15分リズム?
昔からそうだ。
戦後からずっと変わらない?
昔はもっと早かった。12分から13分、さらに7、8分という時もあった。昔のプログラムを見ると、びっしり詰まっている。
普通は都市化や近代化してくると、時間が早まるものだが芸の世界は反対なのか?
そうかもしれない。昔の方がテンポがよかった。
なぜそうなったのか。
できるだけ、いろんなものを見せたほうがいいだろうという感覚ではないか。客がどんどん入ってくる時、じっくり話なんか聴いてくれない。
客の回転も速かった?
一概には言えない。
今、末廣亭では昼が4時間半、夜が4時間だが、弁当を持って朝から晩までいる人もいれば、お目あての人を1人聴いて、それで帰っていく人もいる。夜の方が若い人が多く、夜の部に若い人向けのプログラムを組んだりする。
どういう工夫。
新作をやる芸人だったり、客層と年代が近い噺家をもってきたりする。
英語落語をやっている噺家がいる。
落語を英語に置き換えて言ってるだけで、落語のニュアンスが伝わるのだろうか?
この現代で、着物着て、座布団に座って話す。その形式が受け入れられるのは、日本独特のものだと思う。
最近の客の傾向は。
好きな人が出ている時、集中してくる人が多い。昔は誰が出ていようと寄席だから、寄席を見に来る人が多かったけど、今はネットで簡単に検索できる。ただ、そういう情報もよしあしだ。昔は寄席のファンがいた。そういうファンは、誰が出ていても別に構わない。
また噺家があちこちで、小さい会を持っている。それがもともと寄席の原点ではあるが。
昔は蕎麦屋の2階とか風呂屋で、芸人が1人でも2人でもやるからといってやっていたものだ。それを興行師が見てて、これは商売になるなと値踏みし、廃れてきた浪曲などの代わりに、噺家を呼んで落語の寄席をやろうとなっていった。そもそも寄席というのは、人を寄せる場所だ。
それは江戸時代から?
いや、明治の頃からの話だ。江戸時代は芝居一本だ。江戸時代はお笑いとか風刺というものを権力者が嫌った。歌舞伎でも侍を馬鹿(ばか)にした表現があったりすると興業中止に追い込まれたりした。だから侍の忠義をうたう忠臣蔵の講談とか、敵討ちの武勇伝とかが中心となった。
そういう文化的な縛りがあった?
明治になってそういうのがなくなったが、なかなかお笑いにはシフトしなかった。とにかくテレビもラジオもない時代だから、世相をすぐ取り込める講談なり、聴いて楽しめ、耳に心地よいものに飢えていた。地味な落語より娘義太夫などは人気があったと思う。
江戸時代には娘義太夫はなかった。
なかった。歌舞伎でも女がやってはいけなかったから、女形(おやま)が出てきた。
なぜ。
風紀の乱れを懸念したからだ。
落語の新潮流は。
古典落語を自分なりに解釈して、解釈をかえてやっていくというのは、当たり前のようにやっている。それがないとさすがに続かない。どの辺までいじっていいか、それはその人のセンスだ。それを聴かせるものにできるかどうかは、その人の力だ。
落語は同じものを繰り返すだけなのに、なぜ続いているのか。
やはり、登場人物に同調できるからだろう。落語には悪い人間が出てこないと言う人がいるが、悪い考えをもった人間はいっぱい出てくる。その意味で、人間そのものを隠しもしないで、そのまま、ぶつけているから、こういう人いるよなといった親近感がもてる。
こんな奴(やつ)いるよとか、うちの女房みたいだとか、まわりにこういうの多いのよなとか。それと話の中でものを知らなかったり、笑える優越感を与えてくれるし、温かみがある会話の芸なので、何でも自分の気持ちが入っていける。浪曲や講談は、あったことを読んで聴かせるわけだから、一方的だ。その点、落語に出てくる人間の会話には身近なものが多い。
結局、何百年経(た)とうが、人間というのはそう変わっていないということかもしれない。