魂を発する詩吟は精神文化
漢詩に生きる
金沢市議会議員 黒沢和規氏に聞く
加賀百万石前田家の城下町として栄えた金沢は、文化都市として名高い。しかも、その歴史は武家屋敷群や茶屋街などに残っているだけでなく、人そのものにも脈々と受け継がれている。「漢詩」を人生の友としてきた金沢市議会議員の黒沢和規氏に、その魅力を語ってもらった。(聞き手=池永達夫)>
自然体の声が一番 「詩吟百篇」意自ずと通ず
一番好きな詩人は?
中国で言えば、やはり李白、杜甫だろう。日本では頼山陽、藤井竹外。中国の唐の時代には、たくさんの詩人が輩出した。特に盛唐の時代だ。
また、晩唐の杜牧の詩はいいのがたくさんある。
山に登ったら遠くに一面、桃の花が咲いている。鶯(うぐいす)が鳴いている。所々に青い旗が見える。青い旗というのは当時の中国では、一杯飲み屋の印だ。春霞の中を遠くの寺の塔が幾つもかすんで見える。そういう杜牧の叙景詩なども好きだ。
日本でも漢詩人はたくさんいる。平安時代しかり、鎌倉時代しかりだ。とりわけ鎌倉の五山文学では、僧侶が詩を作っている。それから江戸時代だ。それも江戸時代後期の1800年代には、日本ではたくさんの漢詩人が輩出された。
その中には当然、日本の漢詩人の第一人者といわれている頼山陽がいる。また、藤井竹外は日本の李白といわれている人だ。
明治になっても、漢詩を作る人はたくさんいた。夏目漱石をはじめとして福沢諭吉、さらに正岡子規や乃木希典、西郷隆盛も作っている。とりわけ漱石の詩はいい。
漱石の小説の中に漢詩的文体があるのか。
ある。
フェーズでこれはどこからもってきたとか、原典が分かることがある。
日本の文学作品は元来、中国の漢詩などから影響を受けてきた。枕草子や源氏物語にしても、中国の多大な影響を受けているわけだし、唐詩選などを踏まえたと思われる平家物語もそうだ。松尾芭蕉の「奥の細道」も、漢詩の素養を持った上で作品を書いている。たとえば芭蕉が奥州平泉に行った時、杜甫の「春望」を引用し「国破れて山河あり 城春にして草青みたりと」と記し「夏草や兵(つわもの)どもが夢のあと」と展開してくる。
もっと面白いのは、落語だ。落語も漢詩の素養があったら、ものすごく入っていける。漢詩の慣用句だとか、結構出てくる。その意味で漢詩をやると落語も分かるようになる。
中央アジアなどでは詩人のステータスは高い。一方、日本ではそうでもない。なぜ?
漢詩が廃れてきたという話をしてきたばかりだ。結論から言うと、公教育でほとんどやらなくなったことが大きい。
中国で李白、杜甫だとかたくさんの漢詩を作る人を輩出した。なぜそうなったのかというと、国家公務員上級職の試験である科挙の試験科目に漢詩の詩作があった。
今では中国でも漢詩を作る人は、ほとんどいなくなった。だが唐の時代とかだと、進士の試験に漢詩がうまくつくれないと採用されない。だから一生懸命作る。当時の高級官僚というのは漢詩をみんな作った。漢詩詩人を調べると、日本でいう総理大臣クラスや事務次官クラスといった人たちがいる。だからうまい。
例外だったのは李白だ。李白は科挙の試験に、なかなか受からない。大酒飲みで朝から晩まで酒を飲んでいたからだ。説だと3斗飲んで初めてまともに詩が書けるという逸話まで残っている。
しかも「碧眼(へきがん)の詩人」と呼ばれていた。李白は漢民族ではない。今のトルキスタンだとか中東の人だったという説もある。碧とは緑だ。
江戸時代や明治初期までそうだったけど、口語体ではなく文語体で文字を書く。それも中国語の書き方、漢文で書くわけだから、漢詩は作りやすかった。
だけど、漢詩には面倒くさい決まり事がある。韻を踏んだり、平仄を合わせないといけない。平仄(ひょうそく)というのは「国破れて山河在り」の詩で言えば、「国破」のあと「在」、そのあとに「山河」が来る。漢詩の決まりではその2字目が「仄」の字であったら4番目の字は「仄」の字であってはいけないなどという決まりがある。「平仄が合わない」というのはそこから来ている。
そんなもの今の普通の日本人が見たって分かるはずもない。現在日本人で漢詩を作る人は、一生懸命、漢和辞典を見ながら、これは表の字、裏の字とチェックしないといけない。
そもそも詩吟のルーツはどこに?
李白・杜甫の時代は、皇帝からこの詩を作れと言われて作ったら、自分で節をつけてその詩を詠じた。それが中国の詩吟の始まりだ。
日本でも歌会初めでも行われているように、あのような形で声を出してやる。中国もそうだ。つい最近の明の時代ぐらいまで、そういうことが行われていたが、共産主義体制になってなくなってしまった。
日本で現在のような形の詩吟が起きたのは、江戸時代の後期、武士道に結び付けられ、士気を鼓舞するために声を出してやった。そこが日本の詩吟の原点になっている。
江戸時代末期の詩吟というのは、社会情勢も反映されているのか?
反映されている。
吉田松陰は、「我、国のために死す。死して君親に負(そむ)かず」と詠んでいる。「君親」とは「天皇と親」のことだ。
それが幕末から明治に入った途端、文明開化になって漢詩というのはとんと人気がなくなった。ただ、漱石などは漢詩の素養があるので、そういう人たちに受け継がれていった。
だから漢詩の命脈は明治まではつながる。断絶してしまうのは戦後だ。
私の世代も高校の古典で漢詩は習った。それが一時、今から20年前、高校ではそうしたものをほとんどやらなくなった頃があった。論語だとか、古文の一部としてちょっと触れる程度だ。
今は?
漢文の部分が増えている。
棚にはずいぶん本がある。
単なる積読(つんどく)だ。
人物に対し関心がある?
歴史が大好きだ。何かの時に、調べてみたりする。
やはり詩吟関係者が多い。武田信玄や後白河天皇などもそうだ。
米に密航した新島襄が同志社を作る時、漢詩「寒梅」を作っている。
「庭上の一寒梅 笑って風雪を侵して開く 争はず また力(つと)めず 自ずから百花の魁(さきがけ)を占む」
寒紅梅という言葉があるが、雪が降ってて、紅梅と思われ梅が一輪ポッと開いている。「梅は百花の先駆け」で何にもまして真っ先に咲く。本当はマンサクだとかあるのだけれど、梅が最初に開く。だけど自分が最初に開こうと思って咲いたわけではない。誰かに言われて咲いたわけでもない。自然ににっこり笑って開いている。
詩がかもす絵柄に、生き様としての美学が入っている。
そうだ。詩吟というのは精神文化だ。
それぞれ持っている魂を、声を出して人に発していく。作者の心はいろいろある、抒情詩もあるし、感情の高まった吉田松陰の詩もあるし、それを自分で何回もやることによって、演劇をする人がだんだんのめりこんで役にはまり込んでしまうみたいなことも起きる。
詩吟というのは、いい声でやろうと思わないで、普段、喋っている声でやればいい。自然体が一番だ。声の高い人もいるし、低い人もいるので、低い人は低い声でやればいい。
それと「読書百篇、意自ずからと通ず」というように、詩文というのは何回も何回も読んでいるうちに意味が分かってくる。それが分かってくると、詩吟も自然にできるようになる。
木戸孝允が「駑馬( どば ) 遲しと雖( いへど ) も積歳( せきさい ) 多ければ、高山、大澤尽(だいたくことごと)く過ぐるに堪えたり」と詠んだが、その通りだ。私の精神的バックボーンは詩吟と題材となっている漢詩・和歌だ。











