アブドル・バハ没後100年のバハイ教


日本人に東西世界の融合期待

バハイ教徒 平野祐一・キャシー夫妻に聞く

 19世紀のイラン(当時のペルシャ)でバハオラによって創設されたバハイ教は、独自の聖典と暦を持つ世界宗教の一つで、イスラム教からは異端として長年、迫害されている。今年は、バハオラの長男で1892年から1921年までバハイ教の指導者として活躍したアブドル・バハ(1844年5月23日~1921年11月28日)の没後100年に当たり、さまざまな記念事業が行われている。香川県高松市在住のバハイ教徒、平野祐一・キャシー夫妻にその意義を伺った。
(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)

宗教は愛と正義の源泉
敵意と不和の原因にするな

平野祐一・キャシー夫妻

 ひらの・ゆういち 京都大学工学部建築学科卒、京都大学大学院工学研究科修士課程修了(建築論)。(株)設計事務所洋洋社などを経て平野地域計画設立。四国福祉専門学校非常勤講師。香川建築探偵団代表同人。
 ひらの・キャシー カナダ生まれ。国際基督教大学卒。フリーランス翻訳者。主な英訳は、上橋菜穂子著『精霊の守り人』、荻原規子著『空色勾玉』、湯本香樹実著『夏の庭』など。

アブドル・バハとは?

 祐一 バハイ教の主要な三人の最初の一人がバブ(1819~50)で、神がキリストやムハンマドのような預言者を遣わされると述べた預言者のような人です。それを信じた人たちはバビ教徒と呼ばれましたが、1850年にペルシャによってバブは処刑されます。二人目がバハオラ(1817~92)で、1863年にバブが予言した預言者は自分だと宣言して迫害され、イランから追放されてトルコなどを放浪した果てにハイファにたどり着き、拠点とします。三人目がアブドル・バハです。

 テヘランで生まれたアブドル・バハは8歳の時に父親が投獄、一家はイランから追放され、バグダッドに9年間滞在した後、オスマン帝国に召還されてイスタンブールに移り、最終的に今のイスラエルの監獄都市アッカで政治犯として監禁生活を過ごします。1908年にオスマン帝国で青年トルコ革命が起こると、64歳で40年の投獄から解放され、ヨーロッパと米国へ布教の旅に出ました。

 アブドル・バハが初めて日本人に会ったのは1912年のアメリカで、カリフォルニア州オークランドの日本独立教会に招かれ、講演しています。

 「長い間、我は日本の友等に逢いたいと言う望みを抱いていた。かの国は短期間に異常な進歩を遂げた。その進歩と発展は世界を驚かせた。彼等が物質的文明に於いて進歩したので精神的発達を遂げる能力も確かに所有しているに違いない。それ故、我は、彼等に会いたいという非常に深い切望を持っていたのである」(『残された痕跡をたどって 写真で見る初期日本バハイの歴史』バハイ出版局)

 注目すべきは次の語りです。

 「日本の国の人々は偏見がないという報告を聞いた。彼等は事実を調べ、真理を見い出せばその愛好者になる。彼等は古来の信仰や教義を盲目的に模倣することに固執し宗派心は人々の間より追い払われるであろう。あらゆる偏見は国家に有害である」

 バハイの教えの核心部分については、「宗教は愛の源となるべきである。宗教は正義の源泉とならなければならない。何故なら、神の顕示者達の英知は不変の愛の絆を確立することに向けられているからである」

 「完全無欠の真の絆は宗教的性格を持つ。何故なら、宗教は人間世界の単一性を教えているからである。宗教は道徳の領域に奉仕している。宗教は心を清純にする。宗教は称賛に値する行為を成就させる。宗教は人間の心の中で愛の源となる。何故なら、宗教は神聖なる基礎であり、この基礎は非常に生命を助成する。神の教えは世界の人々の啓蒙の源泉である。宗教は常に建設的であり、決して破壊的ではない」

 続いて万教帰一的な宗教観が述べられています。

バハイ教徒になった日本人は?

 祐一 アブドル・バハを感動させたのが最初にバハイになった山本寛一で、山口県から1900年代初めのハワイ移民です。彼が働いていた米国人家庭にバハイの人がいて、仏教からキリスト教に改宗していた23歳の彼は、バハイを受け入れます。

 ヨーロッパで布教していたアブドル・バハはパリでの講話が好評を博し、その話を聞いたスペイン駐在の日本公使・荒川巳次(みのじ)夫妻の求めに応じ、1912年にパリで会っています。そこでアブドル・バハは、日本の国際的な重要性や人類への奉仕、戦争廃止のための努力、労働者の生活条件の改善、男女共に教育の機会を与える重要性などについて語り、「宗教の理想は人類の福祉のための精髄で、党派的政治の道具に用いられてはならない」と述べています。

 アブドル・バハと面会した数少ない日本人の一人、日本女子大学の創立者・成瀬仁蔵学長は、日露戦争後の退廃的な社会状況を憂い、渋沢栄一や宗教学者の姉崎正治らと帰一協会を設立します。その目的は、あらゆる国民が和合し得る共通の宗教的基盤を探すことで、その運動のため世界一周の旅に出て1912年、ロンドン滞在中のアブドル・バハを訪ねています。

 日本に初めてバハイを伝えたのはハワイ生まれの女性アグネス・アレキサンダー(1875~1971)で、彼女は1900年にローマでバハイの教えを聞き、共鳴しています。

 アブドル・バハから日本宣教を要請されたアレキサンダーは1914年に来日します。彼女はホノルルで津田梅子の講義を受けて日本に興味を持ち、来日後、成瀬学長に大学のチャペルでの講演を依頼されました。同大三代目学長が渋沢栄一で、アレキサンダーに韓国の著名人を紹介するなど協力しています。

お二人のバハイとの出合いは?

 キャシー 私はカナダ生まれで、12歳の時、バハイの友達から教えてもらいました。家は聖公会ですが、カトリックとプロテスタントが戦う北アイルランド紛争が疑問で、神父に聞いても納得できず、「宗教は愛と和合のためにある。それを敵意と不和の原因にするな」という教えにすごく納得したのです。

 20歳で来日し、国際基督教大学(ICU)で文化人類学を学び、土木会社に就職して計画書や報告書の英訳をするようになって、新宿の東京バハイセンターで祐一さんと出会いました。

 祐一 私は高校時代から禅宗に興味があり、京都大学に進むと、建築学の恩師・増田友也工学部教授は、日本建築の空間構成の研究で道元の『正法眼蔵』を使っていました。交流のあったカナダのノバスコシア大学から来日した学生のジョン・アレキサンダーさんがバハイで、話を聞いて禅宗より分かりやすく、肯定的な教えだなと思いました。東京・新宿の設計事務所に就職し、近くのバハイセンターでキャシーさんと出会ったのです。結婚し子供ができたので、高松の設計事務所に転職しました。


《メモ》

 バハイの教えはコスモポリタン的で平和主義、宗教を超えた純粋な真理の香りがする。それは人間が宗教に目覚めた始まりの心性に似ていて、自然への感謝、生命への畏敬など人類に共通したものである。そこに立ち返れば、宗教は一つになるのであろう。

 平野夫妻の自宅は記者の家から車で30分。祐一さんは設計の傍ら、野菜にLEDライトを入れ、内側から光らせるアートを発表している。