「朝鮮戦争の英雄」白善燁氏を偲ぶ

元空将 大串 康夫

日韓の友好協力を体現

 「朝鮮戦争の英雄」白善燁(ペク・ソニョプ)氏が7月10日、99歳で逝去した。白氏は韓国の救国、発展に尽くしただけでなく、日韓友好関係にも大きな貢献をした人物で、まさに立派な天寿を全うした人生だった。

元空将 大串-康夫(おおくし・やすお)氏 1943年生まれ。防衛大学校卒。戦闘機パイロット。85年、防衛駐在官として渡韓。航空自衛隊・航空幕僚副長、航空総隊司令官(空将)などを歴任。

元空将 大串-康夫(おおくし・やすお)氏 1943年生まれ。防衛大学校卒。戦闘機パイロット。85年、防衛駐在官として渡韓。航空自衛隊・航空幕僚副長、航空総隊司令官(空将)などを歴任。

 白氏との出会いは1985年、防衛駐在官としてソウルに赴任した時のこと。真っ先にごあいさつにお伺いした。初めてお会いした時は、物腰柔らかく私の話をよく聞かれ、自分の自慢話は一切されなかった。朝鮮戦争の英雄というより、「故郷のおじさん」に再会したような親しみを感じた。

 当時私は、南山(ナムサン)公園の外国人アパートに住んでいたが、梨泰院(イテウォン)の白氏宅とは目と鼻の先であった。散歩に出ては、よくお目にかかり自宅にも招かれ、貴重な話を聞かせていただいた。

 穏やかで物静かな白氏だが、朝鮮戦争では抜群の統率力を発揮した。北朝鮮軍に追い詰められた釜山橋頭堡(きょうとうほ)攻防の多富洞(タブドン)の激戦では、29歳という若さで師団長として指揮を執り「俺が先頭に立って戦う。もし俺がくじけて後ろに下がろうとしたら、まず俺を撃ち殺せ」と将兵の士気を奮い立たせて、韓国軍の後退を防いだというエピソードを聞いた。

 その後、勝ち戦に転じて米軍が平壌(ピョンヤン)に進攻しようとした際も、「平壌を取り返すのは米軍ではなく俺たちでなくてはダメだ」と部下を引き連れて平壌に向かった。

 少年時代を平壌で過ごした白氏は、平壌を流れる大同江(テドンガン)で遊んだことがあったといい、どこが浅瀬かをよく知っていた。そこを歩いて渡り、米軍よりも先に平壌に入ることができたという。

板門店を案内する故・白善燁氏(右から2人目)と、大串康夫・元空将(左から2人目)=2009年9月、韓国・板門店、本人提供

板門店を案内する故・白善燁氏(右から2人目)と、大串康夫・元空将(左から2人目)=2009年9月、韓国・板門店、本人提供

 白氏は、陸上自衛隊の幹部候補生らが韓国研修に訪れるたびに、高齢を押して自ら戦跡を案内し朝鮮戦争の教訓を説いた。「軍事力の弱い韓国だけでは戦えなかった。アメリカがいたから戦えた。国民が必死になって戦わないと、アメリカは本気にならない」と当時を振り返り、「地政学的には日本も朝鮮半島と同じ。大国に囲まれ、目の前に共産主義国の脅威がある。だから日米韓の協力体制が何よりも重要だ」と熱く語っていた。

 また、白氏が交通部(国土交通省)長官だった70年、赤軍派による日本航空ハイジャック事件(よど号事件)が発生。飛行機が金浦(キンポ)空港に着陸した際、対策本部の人間が管制塔を通じて、北朝鮮行きを迫る犯人と、乗客の安全確保など英語での交渉は難航し苛(いら)立っていた。そこで白氏が「日本語で話したらどうか」と提案。すると、犯人たちとのやりとりが進み、乗客が全員無事に解放された。このこともあり白氏は後に日本の勲一等・瑞宝章を受章している。

 このように数々の功績を残してきた白氏は、当然国立ソウル顕忠院(墓地)に祀(まつ)られるだろうと予想されていた。しかし文在寅政権になってから、左派勢力が「親日派は国立墓地に入れるべきではない」と主張。白氏を英雄と称(たた)える人々と意見が衝突していた。結果的に7月15日、間を取る形で、国立大田(テジョン)顕忠院に埋葬された。歴史をさかのぼって「親日分子」などという前時代的なレッテルを貼り、故人をも貶(おとし)める風潮は嘆かわしいことである。

(聞き手・川瀬裕也)