八幡神社が全国に広がった理由

人と地域、国を守る神の歴史

市谷亀岡八幡宮宮司 梶 謙治氏に聞く

 八幡神は源氏の氏神、武運の神として武士に崇敬(すうけい)され、各地に八幡神社・八幡宮が建てられた。八幡神は誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、第15代応神天皇と同一とされ、また八幡大菩薩と称されて早くから仏教と習合し、境内に神宮寺が設けられてきた。八幡神社が広まった理由を東京・市ヶ谷にある市谷亀岡八幡宮の梶謙治宮司に伺った。
(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)

源氏の氏神となった八幡神
明治の国造りに貢献

八幡神は『古事記』『日本書紀』には書かれておらず、『続日本紀』に八幡の神として初めて出てきます。「ヤハタ」とは何ですか。

梶謙治氏

 かじ・けんじ 1965年、東京都生まれ。法政大学文学部日本文学科卒業、國學院大学高等神職養成課程神道専攻科修了。27歳で父の跡を継ぎ、室町時代から続く市谷亀岡八幡宮の宮司となる。日々のお務めの他、氏子崇敬者による雅楽の継承や、ユニークなお守り、祈祷など新しい神社の在り方にも積極的に取り組んでいる。著書に『神道に学ぶ幸運を呼び込むガイド・ブック』(三笠書房)がある。

 たくさんの旗という意味です。旗や幡は神の依(よ)り代であり、神がお出ましになる目印ですから、たくさんの旗を立てて神を迎えたのです。神が海からやって来るので、遠くから見えるようにしたのでしょう。

 大分県宇佐市にある八幡宮総本社の宇佐神宮の祭礼で、菱形池で刈ったマコモの編み物に木枕を包んだのを御正体とし、空虚舟(うつぼぶね)を造り、海に戻しています。ウツボ舟は丸木舟のことで、海人(あま)族か縄文時代の信仰が継承されていると思われます。それが南方系の八幡神由来で、神功皇后が『日本書紀』で気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)という名になっているのも分かります。潜水漁をする海人族なので息が長いのです。

 北方系では、カラクニ(朝鮮)の城に、八流の幡と共に天降った神が「われは日本の誉田(応神)天皇広幡八幡麻呂である」と名乗ったという伝承があり、この神が八幡神の祖神とされています。これは6世紀ごろの伝承で、北方系、大陸系とされ、旗をトーテミズムと考えると中国雲南省の稲作少数民族の空を仰ぐアニミズムからきていると思われます。

八幡神が広まったのは。

 最初は奈良時代、聖武天皇の大仏造立に宇佐八幡が協力したのがきっかけです。北九州(今の福岡県田川郡香春町)の香春岳(かわらだけ)は古い銅山で、銅を奉納しただけでなく宇佐八幡自身が宣託し、大仏の完成に協力しています。そのため手向山(たむけやま)八幡宮が東大寺の守護神として勧請(かんじょう)されました。

 国家鎮護(ちんご)の神としての活動が、後に八幡大菩薩として神仏習合の典型になります。781年に朝廷が宇佐八幡に鎮護国家・仏教守護の神として八幡大菩薩の神号を贈ったことで、全国の寺の鎮守神として八幡神が勧請されるようになりました。

 宇佐神宮の創建は725年で、文献として最初に八幡神を確認することができるのは737年、『続日本紀』に記載されています。同書が完成したのは797年なので、八幡神は8世紀ごろに突然現れたことになります。

八幡神が源氏の氏神になったのは。

 南都大安寺の僧で空海の弟子の行教が859年に宇佐神宮で受けた神託「われ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」により、翌年、清和天皇が社殿を造営したのが石清水八幡宮の創建とされます。応神天皇が祀られていることから、伊勢神宮と共に皇室の祖神として崇敬されるようになります。

 摂津国多田に源氏武士団を形成した源満仲の三男で河内源氏の祖となった源頼信は、東国で起きた平忠常の乱を1031年に平定し、石清水八幡宮に願文を納め、戦況を報告し、八幡神の加護を祈ったことにより、八幡神が源氏の氏神になりました。

 源頼信の子頼義の長男義家は、八幡神の夢のお告げで母が懐妊したとの伝から、7歳の時に石清水八幡宮で元服式を挙げ、名を八幡太郎としました。1051年に安倍一族による陸奥の反乱「前九年の役」で奥州の鎮圧に活躍するのが頼義・義家親子の源氏の軍団です。次いで1083年に清原家衡らが起こした「後三年の役」を鎮圧した義家は、屯所ごとに八幡神を祀ったことから、坂東の武士たちの間にも八幡信仰が広まったのです。

 その後、源頼義は鎌倉の由比郷に石清水八幡宮から八幡神を勧請して社殿を建立し、流されていた伊豆で挙兵し、1180年に鎌倉に入った源頼朝が現在地に移したのが鶴岡八幡宮です。源氏が鎌倉に幕府を開いたことから、全国の武士たちが源氏と主従関係を結び、各地に八幡神を勧請し神社を建立するようになります。

当宮の創建は。

 太田道灌が関東統治の要として江戸城を築き、比叡山の日吉大社の分霊を頂き城内の守護としたのが日枝神社で、西方の守護神として鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を祀ったのが市谷亀岡八幡宮です。鎌倉の鶴に対し江戸では亀を社名にしました。本地垂迹(ほんじすいじゃく)説によると、西は阿弥陀如来の住む極楽浄土で、阿弥陀如来の垂迹が八幡神です。

明治に神社の多くが整理されました。

 八幡神社はいわゆる国家神道に基づく祭政一致的な明治の国造りに貢献していたので、多くが残されました。

梶宮司がペットのお守りや祈祷を発案したのは。

 氏子や崇敬社からお願いされたからですが、『播磨風土記』に兵庫県西脇市にある犬次神社の起源が記されています。

 応神天皇が鹿狩りに当地を訪れた際、猟犬のマナシロが天皇に危害を加えようとした大イノシシと戦い落命したので、天皇は丁寧に葬り、住民が守っていた墓が、犬はお産が軽いことから「お産の神」となり、やがて「犬次神社」になったそうです。

 太田道灌は猫に命を助けられています。1477年の江古田ヶ原の戦で、敗れた道灌が道に迷っていると、黒猫が現われて手招きをし、今の新宿区西落合にある自性院に案内してくれたので道灌は命拾いをしました。この黒猫を、祀ったのが自性院の「猫地蔵」の始まりです。

 生類憐(あわれ)みの令を出した将軍徳川綱吉の生母桂昌院が当社の崇敬者で、寄進された黄金3枚で神輿(みこし)3基が造られました。

 すべての命を大切にするのが日本の宗教文化で、人々のパートナーになっているペットにも神の御利益が頂けるようにしたいと考案したのです。