終戦の日 国への奉仕を貶めた戦後思潮
76年目の終戦の日を迎えた。戦禍の犠牲となった300万同胞の御霊に鎮魂の祈りを捧(ささ)げたい。そして、先の大戦からの教訓を改めて問い直したい。
東京五輪開催にも影響
多大な犠牲を払い、かつて経験したことのない敗戦から、戦後の日本は反軍国主義、平和主義の下、亡くなった人々は軍国主義による無謀な戦争の犠牲者とされてきた。
確かに勝ち目の少ない戦争であり、特攻作戦など人命を軽視した作戦で尊い命が失われた。戦争体験世代がだんだん少なくなる中、戦争の惨禍は、語り継いでいく必要がある。
一方、戦禍に亡くなった人々や英霊を犠牲者としてのみ捉える戦後の風潮は、彼らが示した国家への献身自体を貶める方向に働いてきたことも事実だ。逆に個人主義的な行動が、何か立派な勇気ある行動のように評価されることも少なくない。
戦時中に当時の小泉信三慶應義塾長は「最高の価値は祖国のために命を捧げることだ」と出征する学生たちを鼓舞し、このことを戦後批判された。しかし、連合国軍総司令部(GHQ)の将校にこの点を問いただされた小泉が「国のために命を捧げることの尊さを説くのは間違いか」と反問したのに対し、将校は何も言えなかった。
国家への奉仕や犠牲は、普遍的で崇高な行為なのである。戦後日本では反国家主義的なリベラル思潮の下、こんな万国共通の常識までもが歪(ゆが)められた。
東京五輪開催をめぐる議論でも、この歪んだ戦後思潮が大きな影を落とした。4年に一度の世界最大のスポーツイベントのホスト国、日本にとって、新型コロナウイルス蔓延(まんえん)下での開催は困難を伴う一方、国際的責任を果たし、それによって国家の底力を示して信用を高める機会でもある。問題は、五輪開催と感染防止の両立を科学的に検討することであった。
ところが、反対派は国が主導する大イベントによって国民の命が脅かされるという図式で先の大戦と無理に結び付ける印象操作に躍起となった。それによって情緒的な不安を国民が掻き立てられた。
反対派は五輪開催中も、日本選手の大健闘による盛り上がりが人流を増やし感染増加につながるなどと、根拠の薄弱な反対論を唱え続けた。しかし東京五輪は成功裡に終了し、困難な時期に無事開催した日本に対し世界は感謝し称賛している。
新型コロナの蔓延は、敗戦によって押し付けられた日本国憲法の欠陥も浮き彫りにした。憲法で基本的人権が尊重されたのは評価されるが、国家の存亡に関わる非常事態においても個人の権利を制限できないという欠陥を残した。全体の生命や権利を守るためには個人の権利を制限することは理に適(かな)っている。他国によるわが国への侵略など感染症以上に深刻な事態に対処する上でも大きな欠陥だ。
首相は改憲へ強い決意を
菅義偉首相は、新型コロナの収束後、緊急事態条項創設など憲法改正の検討を進める意向を示している。リベラル勢力の激しい反対が予想されるが、首相は国家と国民の安全を守るために強い決意で進めてほしい。
(サムネイル画像:Wikipediaより)