江戸時代から近代にかけての東京、多摩地域の歴史・旧跡講演会
八王子や日野は甲州街道の要衝、江戸への物資輸送の中継地
「江戸から東京へ―多摩万華鏡―」が東京・西国分寺の都立多摩図書館で開かれた。町田市在住の品川女子学院高等部校長(今年4月から)の仙田直人氏(前東京都立三鷹中等教育学校長)が多摩地域の今に残る文化遺産・産業遺産の魅力・歴史的意義などを語った。160人余の来場者は、女子高生を相手にするように、今に残る文化遺産・産業遺産についてのノリのよいトーク、当時の様相・解説に聞き入った。(太田和宏)
鉄橋の橋桁とレンガ供給した日野煉瓦
新撰組の近藤勇、土方歳三の故郷
八王子宿は関東各地の直轄領を支配する代官18人が駐在する要衝で、武田氏の旧臣である大久保長安が3万石を領し、代官頭を務めた。甲州の金山とつながる甲州街道の警備・整備、江戸城大改築時に壁用漆喰(しっくい)の材料・石灰を秩父から輸送した青梅街道の整備・開発・警護などに当たった。
日野宿は2人の名主と配下の組頭たちによる農民自治の伝統が長く続いた。日野宿本陣は、都内に現存する唯一の本陣。茅葺(かやぶ)き屋根が当たり前の時代、佐藤彦五郎の住居兼本陣は武家扱いされていた。邸内には江戸後期の古武道・天然無心流(接近戦に強い)の道場がある。
新撰組局長・近藤勇らが、京都に出向く際、同本陣の稽古場や名主・小島鹿之助の元に剣術の出稽古にたびたび訪れている。小島資料館には近藤勇のドクロマークの稽古着が保管されている。土方歳三は、明治2年5月11日、戊辰戦争の最後の戦場になった箱館五稜郭防衛戦で、狙撃を受け戦死、享年35歳だった。遺品の愛刀である和泉守兼定、池田屋事件で使用した鎖帷子(かたびら)などが土方歳三資料館に納められている。佐藤彦五郎や小島鹿之助らが、新撰組のスポンサーとなっていた。
玉川上水は承応元年(1652年)幕命によって開削が始められ、1年余りで完成した。人口増加著しい江戸の飲料水を確保するため、多摩川の羽村の堰(せき)から四谷まで全長43㌔、江戸市中の低湿地帯では井戸を掘っても、塩水しか出なかったためだ。庄右衛門・清右衛門兄弟(玉川兄弟)が独自の測量技術で工事を進めた。しかし、工事は困難を極め、関東ローム層の赤土帯が水を吸い込む場所(みずくらいど公園・福生など)も多かった。高井戸まで掘った時点で幕府からの拠出金資金6000両(一両=約6万円)が底を突き、家を売って工費に充てた。その功績により玉川姓が許され、羽村の堰近くに記念碑がある。
幕府は享保の改革で約20万石分の新田開発を行った。8代将軍・吉宗が、川崎平右衛門に命じて、玉川上水の護岸に薄い桜色の「ヤマザクラ」を植えた。「小金井の桜」は江戸期から戦前にかけて多くの花見客で賑(にぎ)わった。
江戸の人口増加を支えるため、玉川上水からの延長・分岐を行ってきたが、享保7年(1722年)に仙川、青山、三田、本所の各上水への通水を中止した。分岐によって本流の玉川上水の水量が極端に減ったためだった。
玉川上水で太宰治は1948年6月13日、愛人・山崎富栄と共に入水心中した。現在の玉川上水を見ると、こんな水量で自殺できるのか、と疑問に思う状態。だが、江戸・明治期には満々と水が流れていた。明治期には運送にも使われた。1965年に東村山浄水場が整備され、お役御免状態になった玉川上水への注水を止めた。そうしたら、夏場虫が湧いたり、生活排水が流入して、水質汚濁が激しくなった。やむを得ず、現在ではヘドロが溜(た)まらない程度に下水処理水を流している。
江戸期、街道を使った荷車・馬車、河川を使った舟で荷物を運んでいたが、明治期に入って、物流が激しくなり、鉄道での輸送が不可欠となった。多摩地区では、明治22年(1889)新宿―立川間27・2㌔で甲武鉄道が開通した。さまざまな反対運動の中、30㌔近い直線(東中野―立川直線)が敷設された。
立川―日野・八王子まで線路を延長するには、多摩川に橋を架けるしかない。そのためにレンガが必要になる。日野煉瓦は創業後2年(経営者の土淵英の死去により廃業)の間に50万個に上るレンガを作り、20万個が多摩川の橋に使われた。現在も当時のレンガが鉄橋土台に残されているが、残念なことに1本の柱を除いて耐震補強のためセメントで囲われている。
講演で取り上げた地域・遺跡などを見学して回る「多摩を歩く~江戸から東京へ散歩~」会が6月25日(日)、11月5日(日)に行われる。同会には仙田氏が同行、注目すべきポイントの説明や裏話を披露してくれる。