富士と李良枝の文学碑
山梨県富士吉田市に新倉山浅間公園という富士見ポイントがある。2月下旬、山中湖のダイヤモンド富士を撮影しに行った折、初めて立ち寄った。桜と富士と五重の塔を1枚の写真に収められる撮影スポットとして、近年は外国人観光客も多く訪れる。冬場は凍結により、公園入り口は通行止めとなるが、今年は雪がまったくなかった。何百段もの長い石段を上ると、五重の塔の手前にまだ目新しい石碑が立っていた。
碑には「愛、人、生」。韓国語で「サラン、サラム、サルム」。37歳で夭折(ようせつ)した芥川賞作家の李良枝さんの碑だった。裏には「すべてが美しかった。それだけでなく、山脈を見て、美しいと感じ、呟いている自分も、やはり素直で平静だった。韓国を愛している。日本を愛している。二つの国を私は愛している」。受賞後、生まれ故郷の富士吉田を訪れた時のことを書いた「富士山」というエッセーの一節だ。
夭折の李良枝の存在は、あまり知られていない。南都留郡西桂町で生まれ、17歳までここで暮らし、その後韓国に渡る。留学中に書いた受賞作『由熙』には、韓国語ができず、アイデンティティーを求めてもがき苦しむ心の葛藤が描かれている。
一方、生まれ故郷の日本への恨も強かった。エッセーには「美しく、堂々として、みじろぎもしない富士山が、憎くてしかたがなかった」とある。17年ぶりに故郷を訪れ、3日間毎日富士と対峙(たいじ)しているうちに、心の恨が解かれていく。その2年後に李良枝は夭折する。
文学碑は没後23年を経て、「功績を残したい」という吉田高の同級生らによって昨年の命日5月22日に除幕されたという。
その日、文学碑から眺める冬の富士は凛(りん)として、ひときわ美しく、胸に迫るものがあった。もうすぐ新倉山は桜の季節を迎える。訪れる多くの人に李良枝の富士が刻まれ、両国が和解に向かうことを願いたい。(光)