沖縄戦における集団自決、玉津前石垣市教育長が講演

憎悪と温情から生まれた「軍命」説

 石垣市の玉津博克前教育長がこのほど、那覇市で講演し、沖縄戦における集団自決の軍命説は後で書き加えられた創作話であることを当時の証言などによって明らかにした。県教育庁も初めは軍命の記述削除の立場だったが、県内での反対運動の結果、記述を求める立場に変節したことも分かった。以下は講演の要旨。(那覇支局・豊田 剛)

歴史的役割は終わるも記述求める県教委

沖縄戦における集団自決、玉津前石垣市教育長が講演

講演する玉津博克氏=那覇市の船員会館で

 平成6年、沖縄県教育委員会が「高校生のための沖縄の歴史」という副読本を出版した。私ともう一人の歴史教員で作ったが、平成18年度まで10年以上、選択科目の沖縄歴史の授業で使われていた。

 平成19年度から使われなくなった。高校歴史教科書の検定で沖縄戦における集団自決の軍命についてクレームがついて記述が削除されたためだ。文科省は軍の関与自体を否定しなかったが、県内はまるで集団自決そのものが消えたかのような衝撃を受け、「教科書検定意見撤回を求める県民大会」(以下、「県民大会」)にまで発展した。

 騒ぎが始まる直前の3月29日、読売新聞は仲宗根用英県教育長に教科書検定についてのコメントを求めてきた。この日は教育長が退任する日で私は当時、県教育庁の歴史主事だった。この取材に対して「ノーコメント」とすることにした。

 実際、副読本には始め軍命の記述があったが、後に削除されもう記述はなかった。軍命があったと書いていることに対し、その根拠を出すよう求められ、当時の指導者が「忙しくてできない」と逃げ、私に判断を求められた。その結果、沖縄戦について賛否両論があって証拠を出せないということで、軍命の記述を削除したのだ。

 それゆえ、「県民大会」では県教委としては軍命なしの立場を通すのだろうと思った。ところが、新しく就任した仲村守和教育長は「軍命ありき」の考えで、職員から助言を聞く耳を持っていなかった。この時以来、副読本は顧みられなくなり、教育現場から姿を消すことになった。

 軍命は「憎悪」と「温情」のパフォーマンスだった証拠がある。

 沖縄タイムスが書いた「鉄の暴風」は日本軍を一方的、かつ、徹底的に叩いた。当時の出版物は米軍の検閲を受けなければならなかった。あれだけ検閲が厳しい中で出版されたのが「鉄の暴風」という本。米軍のヒューマニズムを表すという趣旨だったから許可されたのであろう。

 米軍の資料を使って米軍を高く評価する一方で、日本軍を悪く書き、慶良間の集団自決を「軍命」によるものとした。「鉄の暴風」は事実無根でねつ造的記述という批判が出てきている。作者の大田良博氏は取材で渡嘉敷島に足を運ばず、旧日本軍の悪行を書くのはの時代の要請であったと証言している。

 私が糸満市の沖縄県平和祈念資料館に勤めていた頃、那覇大綱挽保存会の顧問の東江(あがりえ)芳隆元那覇市議に聞き取りをした。彼は戦後、屋嘉収容所にいた。そのときの話はこうだ。

 渡嘉敷島の守備隊長を務めた赤松嘉次氏に聞いたら「自決しなさいとか言える状況ではなかった。自分は隊長だったがそんな指示はしていない。誤解だ」と言った。島民は狼狽(ろうばい)し、区長、村長、校長とかがお互いに殺しあっていた。実際に赤松隊長はそれどころではなかったと言っていた――。

 東江氏からさらにこうした話も聞いた。

 昭和27年、南方同胞援護会の前身となる組織で運転手をしていたが、各地で戦傷病者戦没者遺族等援護法の説明のため、厚生省援護課の担当者を案内していた。昭和27、28年ごろ、「軍命があればなあ」とこの職員がつぶやいていた。各地で援護法の説明会をしながら集団自決者の遺族等を軍命があれば救済できると考えていたのではないか。日本政府の役人が援護法を作ったが、軍人の命令がなければ援護法に該当しないことになるので、こう言っていた。「各村の援護法担当はそういうふうにつくらなければいけない。事実と多少かけ離れていても真実に近いように、相応しいように作る。これが沖縄なんだよ」。

 兵隊の命令でなければ援護事務に該当しないんだということを東江氏が証言したのだ。

 援護法は昭和27年施行され、翌年適用された。昭和34年の「準軍属」遺族年金(遺族給与金)の法的根拠にもなり遺族の生活を支えた。これらは(沖縄県民に対し「後世特別の御高配を」と訴えた)大田実海軍中将の「沖縄県民かく戦えり」という電文と深くかかわる。

 憎悪と温情のパフォーマンスとしての軍命説の歴史的役割は終わった。