人材輩出の教育的土壌を紹介 企画展「幕末・維新 加賀の教育」

 近代に入り、金沢は傑出した人材を次々と輩出した。例を上げれば、タカジアスターゼなどの薬を創製した化学者の高峰譲吉、日本近代化学の父とたたえられる桜井錠二、日本水産業の父・関沢明清、天文学者の木村栄、鉄道技術者の平井晴二郎、海軍大将の瓜生外吉らだ。金沢市の金沢ふるさと偉人館で開催中の企画展「幕末・維新 加賀の教育」では、彼らを生み出した独特の教育的土壌を紹介し、文化都市金沢の原点をひもといている。(日下一彦)

洋学の発達が文化レベル上げる

金沢ふるさと偉人館で開催

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壮猶館で使用されていたオランダやイギリスの洋書の数々(金沢ふるさと偉人館)

 日本の近代的教育制度は明治5(1872)年、明治新政府により学制が発せられ、急激に発展を遂げるが、それ以前は各藩で独自の教育が行われていた。加賀藩では寛政4(1792)年、11代藩主前田治脩(はるなが)の時、文学校として明倫堂(めいりんどう)と武学校の経武館(けいぶかん)の藩校2校が設立された。当時、他藩では文武両道が一般的だったが、加賀藩ではこれを二つに分け、現兼六園の西南部約2万坪の敷地内に建てている。

 学校設立の目的も画期的だった。通常、武士のみを対象とした藩校にも関わらず、「四民(士農工商)教導」を掲げている。すなわち、藩士のみならず庶民も入学させ、町在の貧しい子弟で才能と志のある者には給費生として藩の費用で入学させた。当時これほど庶民の子弟を優遇した例は極めて希(まれ)だった。ここに加賀藩の大きな特徴がある。

 では、どのような内容が教えられたのだろう。明倫堂の学科目をみると、和学、漢学、医学、算術、筆道、習礼、歴史、天文、暦学、詩文、法律、本草学など実に多彩だ。寛政期には漢学のみ課す藩が多かったのに比べると、異彩を放っている。

 一方、武術の鍛練を目的に創設された経武館では、弓術や馬術、槍術、柔術、居合、棒術などの科目があった。学頭には京都から儒学者の新井白蛾(あらいはくが)を招聘(しょうへい)している。

 こうした加賀藩独特の進取に富んだ教育土壌の上に、前述の偉人輩出に多大な影響を与えたのが、壮猶館(そうゆうかん)だった。黒船来航(1853年)によって、諸藩は幕府の命を受け、海防を中心とする海陸軍の建設や人材教育などの藩政改革を行う。加賀藩でも同年、砲術や化学を研究する「西洋流火術方役所」が設けられ、翌年の安政元(1854)年に壮猶館と改称した。

 壮猶館では当時、最新技術の高島流の砲術が公式に採用され、広範囲にわたる研究と教授及び実地訓練が行われた。教育部門には測量方、製薬方(舎密(せいみ)方)、翻訳方、鋳造方、会読方が置かれた。当初、翻訳の対象とされたのはオランダの兵学書だったが、後には医学書や英書の翻訳も行われ、単なる兵学校にとどまらず、広く西洋の学問を取り入れる洋学校の性格を帯びるようになっていった。

 教授陣も異色で、高峰譲吉の父・高峰精一(舎密方)、蘭学者の黒川良安(翻訳方)、西洋の砲術を師範した佐野鼎(かなえ)、後に日本人で初めてシベリア横断した嵯峨寿安(じゅあん)(翻訳方)らそうそうたる顔が並ぶ。

 企画展では、壮猶館で使われていたオランダ語や英語で書かれた分厚い洋書が数点展示されている。こうした洋書は藩が奉行を長崎に派遣し、オランダやドイツの書籍を買いあさり、その数は1千冊を数えたという。オランダで発刊された書物も、2年後には金沢に届いていた。それらを見ると、貪欲なまでに海外の新知識を吸収しようとした彼らの向学心が伝わって来る。

 壮猶館で使われていたのは兵学書だけでなく、医学書や歴史、化学などあらゆる分野の書物で、それらは今も「壮猶館文庫」として保存されている。同館の増山仁学芸員は「こうした洋学の発達が加賀藩の文化レベルを上げ、明治維新以降、偉人たちを輩出する原動力になったのではないでしょうか。特に金沢から多くの化学者が出ているのは、壮猶館の影響がものすごく大きいと思います」と解説している。

 壮猶館の創設後、英学を専門に学ぶ致遠館なども設立された。また、藩校ばかりではなく、私塾や寺子屋もこの時代、数多く存在した。企画展は明倫堂や経武館の絵図や現存する壮猶館の門の写真をはじめ、使用された洋書や兵学書、当時の日記など90点余りで構成されている。また、そこで学んだ多くの偉人や教師たちについても紹介している。同展は11月30日(日)まで。