還暦を過ぎ、だんだん日常になっていく死
最近、親しい人たちが相次いでこの世を去っている。来年、高齢者の仲間入りをする筆者にとって、死は既に日常的で身近なものになったようだ。
幼い頃、死は暗闇と同じだった。母や父と同じ布団で寝ているのに、自分だけが目を覚ましている。目を開けると真っ暗で、何も見えない。怖いので、ぎゅっと母親の手を握る。握り返してくれるとほっと一安心した。
時たま独りで寝ていると、黒い人影に抑え込まれていることに気付く。隣の部屋で仕事をしている両親に助けを求めるが、動けないし声も出ない。もがいているうちに目が覚めて、一安心することもあった。
当時、一番印象に残っているのは、テレビドラマで死を暗闇に人が投げ込まれたように描いていた場面だ。死者が暗闇の中で独り驚き、叫びながら、最後にその声まで消えて暗闇だけが残る。そんなイメージが鮮烈に脳裏に刻まれた。この世を去ると、死を嘆き悲しむ自分(の意識)すらなくなるのかと思うと、本当にぞっとした。
若い頃の筆者にとって死は日常とは懸け離れたものだった。中学校の友人が病気で死んだり高校の先輩が事故で死んだことを聞いて、ひどく驚きはしても、いってみれば異常なことだった。誰もが独りで死んでいくので、人の一生は夜空の流れ星のように孤独ではかないものだなあと、観念的に捉えていた。
仕事や家庭の切り盛りで忙殺されるその後の生活の中では死はだんだん意識の片隅に追いやられていった。もちろん肉親や親戚の葬儀によって、不意に現実に呼び戻されはしたが、その頻度は多くない。
それが還暦を過ぎて、両親の世代がどんどんいなくなり、先輩方や同世代にもこの世を旅立つ人が増えていくと、いよいよわれわれの番だなと思うようになった。如何(いか)に死ぬかは、やはり如何に生きたかによって決まる。そんなことをつくづく思わされるこの頃である。
(武)