奴隷制受け入れた建国の父
向上する人類の倫理観
価値観は時代とともに変化
【ワシントン】これまであらゆる人々が、あがめられ、洗練された人物も含め、現代ならば非道と考えられるようなことに、どのような理由があって関わるようになったのか考えることがよくある。例えば奴隷制だ。建国の父らも、崇高な理想を持ち、自由のために尽力していながら、一方で奴隷制を受け入れ、一部はこれに加担した。その80年後、奴隷制に強く反対した聖人リンカーンですら、少数派アフリカ系米国人の間では否定的に捉えられるようになっていた。
歴史を検証しようとすると、先人に対する優越感を感じやすくなるものだが、本当は謙虚な気持ちで見詰めるべきものだ。確かに、現在行われていることで、後世の人々に激しく非難されるようなこともあるだろう。ただ一つの問題は、どちらの道を取るかだ。
その答えは動物の扱い方に見いだせるのではないかと思っている。産業として、動物を飼育し、面倒を見、殺し、食べていたことを2世代後の人々が理解するのは難しいだろうと私は考えている。
確かに、動物の扱い方は改善されてきた。特に、見せ物としての動物や拘束の方法などで顕著だ。例えば、バーナム・アンド・ベイリーは、象のショーをやめる。この巨大な動物に、コミカルで派手な衣装を着せ、歩き回らせる。足かせがはめられているときもある。これは、サーカスをする側の品位、さらに見る側の人間性という点でも、非難の対象となっている。
また、シーワールドはコマーシャルで、館内のシャチがいかに大切にされているかをアピールしている。過去の行いを悔い、謝罪すらしているかのようだ。これは、この賢い動物をエサのために命令に従ってジャンプさせ、観客を喜ばせるように訓練する水族館の営業にも寄与する。
これらの対策の中には営業のためのものもあるが、それでも受け入れられている。シーワールドの来館者は減少し、シルク・ド・ソレイユは動物を使わずに繁栄している。動物園でも改善がみられる。私が子供のころ、動物園の動物は檻(おり)に閉じ込められ、かわいそうに見えた。地面を何度もひっかき、最後は諦める姿は哀れだった。今では、広々とした所に入れられ、檻もほとんどなくなり、走り回れるスペースも十分にある。
これは、当然のことだ。動物園は、人間の脅威であり、生息地をめぐって競い合ってきた動物に対する優越性を象徴するものとされてきた。トラは今でも吠(ほ)え、人間を食べることができるが、もう人間と競合することはない。人類のライバルは一掃されるか、茂みの中に追いやられた。例外的に、勇敢なサーファーがサメに食べられるということも起きているが、脅威は去り、それとともに支配するスリルも失われた。
そのため、キングコングのように、野生動物をつなぎ、飼いならして見せる必要はなくなった。代わって現在の動物園の重要な使命となったのは保護だ。さまざまな生物を飼育し、研究し、保護し、増やす。一部の生物は絶滅が危惧されている。
他の面での進展もある。これは動物だけでなく、人間にとっても言えることだ。人類の倫理観の向上の度合いは、この罪のない生物の扱い方でも測ることができる。一方で、人間同士は互いに残虐行為を行っているのも現実だ。動物に罪はない。
ここで肉食の問題が出てくる。肉食は最終的にはなくなるだろうと私は考えている。そのほとんどは金もうけのためのものでもある。科学によって、低コストで手軽に生産できる代用食品が見つかる。そうすると、肉食は風変わりな道楽になる。現在の葉巻のようなものだ。葉巻文化は消滅しようとしている。
私自身も人並みに肉は好きであり、ここにジェファソン的な偽善があることを告白しなければならない。イチゴ類や野菜を食べることについてはそれほど積極的ではない。呵責(かしゃく)の情を感じるのは、一部の特異なものについてだけだ。消費するすべてのチキンが平飼いで、自由に行動できていたことの証明を求めはしないが、そうである方がもちろんいい。
動物愛護団体PETAに入る気はない。それどころか、人間は万物の標準だと考えている。だが、選択しなければならないときもある。医学実験はあまり好きではないが、例えば、人類を失明から救うためにネコを研究しなければならないなら、実施する。
旱魃(かんばつ)に見舞われたカリフォルニアの人々を救うために5兆㍑の水が必要で、そのためにデルタスメルトが死ぬとしても、反対はしない。アイルランドほどの面積のトナカイ保護区内のダラス空港ほどの面積の掘削場で、日量100万バレルの原油を生産すると、北極のトナカイの繁殖行動が妨げられても、盛りのついたトナカイの群れには悪いが、掘削する。
しかし、必要のないこともある。美しい動物をケージの中に閉じ込めること。見せ物にすること。これらは見直すべきだ。
チーズバーガーの問題は今後の課題だ。倫理的に取り繕うのはやめるべき時がいずれ来る。その時までには、代わりが発明されていることだろう。人類はいつもそうしてきた。






