「レッドスキンズ」は差別語か

チャールズ・クラウトハマーコラムニスト チャールズ・クラウトハマー

大切なのは良識と善意

時間とともに変化する言葉

 ワシントン・レッドスキンズについて。

 微妙な人種問題に関してスポーツキャスターの講義を受けさせらせるのはごめんだ。チーム名の変更に関して合衆国大統領からアドバイスされるのもごめんだ。人種問題をカードとして使う部族リーダーの脅し文句も聞きたくない。

 誰も、どこでも、誰に対しても、何に関しても、不愉快な思いをさせないよう監視する言葉狩りのようなものは嫌いだ。悪意も偏見もなく、アメリカン・フットボールチーム「レッドスキンズ」は80年の輝かしい歴史がありそれを守りたい、というレッドスキンズのオーナー、ダン・スナイダー氏と数多くの熱心なファンの主張を、私は全面的に支持する。

 しかし、現実には、言葉は生き物であり、変化する。

 50年前、アフリカ系米国人を意味するもっとも丁寧な言葉は「ニグロ」だった。この言葉は、マーティン・ルーサー・キング師の講演「私には夢がある」に15回登場する。何十年間にも及んだ公的、法的差別で普通に使われていた数多くの侮辱的な言葉は、ニグロという言葉に取って代わられた。

 ブラックパワー運動や「ブラック・イズ・ビューティフル」運動など複雑な歴史を経て、さらに変化した。現在、好んで使われるのは、「ブラック」「アフリカン・アメリカン」だ。ごく一部の例外を除いて、ニグロという言葉は、見下すような、屈辱的な響きを持つ。

 連邦議会の人種構成について説明するとき、「ではまず、44人のニグロがいます」とは普通、言わない。50年間、ずっと眠っていた人なら、言うかもしれない。この言葉の意味のニュアンスが変化したことを知っていれば、他の言葉を使うはずだ。

 ここで重要なのは、この言葉を使わないのは、言葉狩りのせいではないということだ。スポーツキャスター、ボブ・コスタス氏が熱弁を振るったせいでもない。大統領が批判したからでもない。この言葉に、汚いイメージがあり、誰もが嫌う否定的な意味合いがあるからだ。

 その証拠に、「政治的な正しさ」が問題にならない私的な場でも、この言葉は普通、使われない。

 同じように、連邦議会の人種構成について「数えましたところ、レッドスキン(アメリカ先住民)は2人」と言うこともない。そんなことはあり得ない。この言葉が80年前にどのような使われ方をしていたとしても、現在は不快な響きを持つ。

 ほとんどのアメリカ先住民がこの言葉に不快感を持っていないという調査もある。しかし、そんなことは問題ではない。私が反対しているのは、さまざまな少数派勢力からの圧力や、調査とか批判が怖いからではない。

 子供のころ、「gyp」という言葉は「いんちき」を意味すると思い、そういう意味で使っていた。gypが「ジプシー」の略語であることを知ったのは大人になってからだ。そして、この語葉を使うのをやめた。

 この言葉でロマの人々が不快な感情を抱くかどうかを調査したわけではない。不思議な病気が発生して地球上からジプシーが消えて、この言葉に不快感を持つ人がいなくなっても、この言葉は使わない。

 どうしてだろうか。単に良識の問題だからだ。相手が生きていても、いなくても、不快感を与えても、与えなくても、侮辱的な表現で人のことを決め付けてしまう言葉を私は使いたくない。誰が、何回くらいその言葉で気持ちを傷つけられたかという問題ではなく、その言葉の歴史的背景とは関わりがなかったしても、もともと軽蔑的な意味合いを持つ言葉を使いたいのかどうかという問題だ。

 「ワシントン・レッドスキンズ」という言葉に歴史と愛着を感じ、憎悪などかけらも感じていない多くの善意の人々がいることを忘れてはならない。このところ漂ってくる雰囲気は忘れよう。問題は、信念とか大義名分ではなく、言葉のニュアンスの変化へ適応するかどうかだ。この言葉を使わないという主張に危うく乗ってしまうところだった。

 「スキンズ」はどうだろうか。すでに「ワシントン・レッドスキンズ」の短縮形として使われている。寄せ集めのアメリカン・フットボールの試合などで上半身裸になって敵味方を見分ける「スキンズ対シャーツ」のように、スポーツの雰囲気が漂う言葉だ。

 好きな名前を付ければいい。形にばかりこだわる必要はないと思う。ブラウン対教育委員会裁判の話をしているわけではないのだから。チームのオフェンスはアメリカ先住民でなければならないなどと言っているわけではないのだから。言葉の使い方とその変化の問題だ。1934年の映画「ゲイ・ディボーシー(陽気な離婚、邦題・コンチネンタル)」を今、リメークするなら、タイトルを変えなければならない。

 人が変わったからではなく、「ゲイ」という言葉の意味が変わったからだ。

 スキンズ万歳。