新羅仏教と日本の深いゆかり
浄土宗の源流は新羅の元暁
元暁宗和気山統国寺住職 崔 無碍師に聞く
新羅の僧、元暁(がんぎょう)と義湘(ぎしょう)を高く評価したのが鎌倉時代、高山寺の明恵で、国宝「華厳宗祖師絵伝」を監修し詞(ことば)を書いたとされる。とりわけ元暁は華厳宗とともに新羅浄土教の先駆者で、その思想は中国でも高く評価されている。日本仏教に大きな影響を及ぼした元暁について、大阪・天王寺にある元暁宗統国寺の崔無碍(チェムエ)住職に話を伺った。
(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)
衆生救済の方便として活用
東アジアの宗教を一つに
元暁宗という宗派は?

チェ・ム・エ 1951年北海道生まれの在日二世。統国寺の3代目住職徐泰植と大阪で出会い、僧侶になって寺を継いだ。1994年に、韓国系の在日本韓民族仏教徒総連合会(韓仏連)と元暁にちなむ「海東会」を発足させ、南北交流を進めている。「統国寺」の書は有馬頼底師。
韓国にあり、日本にもいくつかあります。元暁(617-686年)は新羅の華厳宗の僧侶で、新羅浄土教の先駆者とされ、浄土宗の色合いが濃い宗派です。日本の浄土宗、浄土真宗、時宗など浄土宗系の宗派に影響を与えて、法然が「浄土宗」という言葉を採ったのも元暁の『遊心安楽道』からです。同書の著者については異論がありますが、内容は元暁の教えです。
親鸞は仏教の戒を破って肉食妻帯しましたが、元暁はそれを7世紀に実践し、僧も俗人も変わりないことを示しました。浄土思想を確立したのは中国の善導(613-681年)ですが、日本では元暁の影響の方が大きいと言えます。
新羅における華厳宗の祖は義湘(625-702年)で、奈良の東大寺に華厳宗を伝えたのは新羅僧の審祥(しんじょう)です。日本の仏教は最初に百済から伝わりますが、骨格を形成したのは新羅仏教です。
新羅仏教は護国仏教とされますが?
元暁にとって大切なのは国家よりも民衆です。新羅では、王侯貴族の若者を中心に、古来からの天神信仰に道教・儒教・仏教を取り込んだ宗教を信仰する花郎集団が生まれ、後に武術も行うようになり、新羅による三国統一に活躍しました。花郎が信仰したのは鎮護国家の仏教ですが、元暁はそれまでの貴族仏教に反対し、仏教は民衆の中に入って行くべきだとしたのです。
大きなひさごを叩きながら歌を歌い教えを説いた元暁は踊念仏の一遍のようです。
元暁の思想を継承したのが浄土宗で、実践を継承したのが浄土真宗や時宗です。平安時代後期の天台僧で融通念仏宗の開祖となった良忍も『遊心安楽道』を学んでいます。元暁は「往生歌」も作り、身分を問わず往生できると説いたので、下層にまで広まりました。
新羅の花郎集団では、末世に兜率天(とそつてん)から弥勒菩薩が現れて人々を救済するという弥勒信仰が中心ですが。
弥勒菩薩は、釈迦の次に成仏して如来となり、多くの人を救済すると言われている菩薩です。約56億年後に娑婆世界に現われるというのが「下生(げしょう)」で、弥勒如来の下生は遠い未来ではなく、「今」成されるからそれに備えるというのが「下生信仰」です。
それに対して、自分が死んだら弥勒菩薩のおられる兜率天に往生し、弥勒と一緒に修行して救われたいと願う「上生(じょうしょう)信仰」もありました。
新羅初期には貴族を中心に弥勒下生信仰が先行していたのに対して弥勒上生信仰を重視し、『大乗起信論』の影響を受け、弥勒浄土から阿弥陀浄土の信仰に移ったとされます。「念仏すれば阿弥陀如来の西方極楽浄土に往生できる」という教えの方が民衆には簡単ですから、元暁は衆生を救うための方便として浄土信仰を活用したのです。
元暁の思想は「和諍(わじょう)」にあると言われます。
和諍とは、争いや異なった考えを調和させることです。当時、既にいろいろな宗派に分かれていた仏教理論を、高い次元から総合しようとしたのが元暁の和諍思想です。釈迦の説いた真理は一つですから。
さらに、悟りとは、自分の内に在る「一心」に立ち返ることで、「和諍」の基底に「一心」の思想があると説き、衆生のための実践を導き出したのです。そして、涅槃(ねはん)の世界は現世を離れて存在するものではなく、この世界が真如の世界に成り得ることを強調しました。一心に至れば誰でも現世で悟りを得ることができると説いたのです。
そして、仏教の究極的な目標は深い哲学を極めるだけでなく、常に衆生を救済することにあるとしたのが無碍(むげ)の実践で、元暁は風のように現れて歌ったりしながら仏教の生活化に努めました。無碍の実践なので肉食、妻帯もしたのです。さらに、心は仏教、健康は道教、礼節は儒教と、東アジアの宗教を人間の生き方として一つにしました。
聖徳太子に仕えた秦河勝(はたのかわかつ)は新羅系渡来人です。
修験道の白山信仰や稲荷信仰、八幡信仰は秦氏が持ち込みました。修験道の役小角(えんのおづの)も秦氏で、朝鮮の山は白頭山や太白山脈など「白」が付いています。
円仁は唐に在住する新羅人に助けられています。
唐末期は廃仏の嵐が吹き荒れ、円珍は長安から徒歩で山東半島にある新羅人の町・赤山(せきさん)にたどり着き、新羅商人の貿易船で帰国します。円仁は赤山の新羅寺で新羅仏教を学び、赤山明神を比叡山に勧請しました。
次に入唐した円珍が帰途、船が遭難しそうになったのを新羅明神に救われたので、帰国後、三井寺に新羅明神を祀(まつ)ったのが今の園城寺新羅善神堂です。
儒教が国教の李氏朝鮮では仏教が衰退します。
転機になったのが豊臣秀吉の朝鮮侵略で、高僧の惟政(いせい)が義勇軍として大奮闘したことです。以後、僧兵が国境警備に当たるようになり、廃仏政策も緩和されました。惟政は講和交渉を行い、戦後の国交回復でも徳川家康と交渉しています。
統国寺という名称は?
朝鮮半島の南北統一への願いからです。古代には難波百済寺だったとされる法相宗の寺でした。大坂夏の陣で焼かれ、1689年に黄檗(おうばく)宗の僧が再建します。明治以降、文化人の社交場としても栄えましたが次第に衰退し、1970年に在日本朝鮮仏教徒協会が再興しました。