歌で日韓の懸け橋に

歌人生

歌手 半田 浩二氏に聞く

 『済州エアポート』で歌手デビュー(1988年)を果たした半田浩二(はんだこうじ)氏は、韓国からも出演オファーがきた。当時は韓国で日本の曲を日本語で歌うことは許されていなかった。だが結局、韓国のTVで半田氏の日本語の歌が流れ、戦後初の快挙に。その時の裏話などを聞いた。
(聞き手=星野睦子)

KBSに日本語の歌
日本の歌曲許されない時代

もともと歌い手を目指していたのですか。

半田 浩二氏

 はんだ・こうじ 本名・飯田政弘。1963年生まれ、千葉県野田市出身。作詞家・作曲家の故・中山大三郎氏に師事し、同88年に『済州エアポート』で歌手デビュー。50万枚の大ヒットとなった。

 いいえ。きっかけは、「街かどTV」(TBS)という番組でした。当時、赤坂のTBSホールの前で、素人がノーエコーでカラオケを歌って、勝ち抜いてゆく番組がありました。

 地元で、町おこしでカラオケ大会をやることになったんですが、単なるカラオケ大会ではつまらないので“店対抗”にしよう、と。

 うまいお客さんは、何軒からも“うちの代表で”と声を掛けられた。私はスナック「シーサイド」というところでアルバイトをしていて、そこの代表で出たんです。500件くらいの応募がありましたが、おかげさまで優勝できました。

 その大会の審査員長の山田太郎さんが「街かどTV」の審査員もやっておられ、「よかったら出てみない?」ということで出場することになり、勝ち抜いていったんです。

プロデビューのきっかけとなったのは。

 恩師の中山大三郎氏に出会ったことです。同番組の審査委員長が中山先生で、「よかったらうちに来ないか?」と言って下さったんです。それから4年半、先生のお宅に住み込みで内弟子をやりました。

“内弟子生活”はどのようなものだったんですか。

 4年半の間で、歌のレッスンを受けたのはたった3回。あとは酒とゴルフと料理のレッスンでした(笑)。

 大体週の半分くらいはご自宅で過ごされるのですが、その間の食事やつまみは全部一人で作ってました。

 おまけに毎日、近所の方が10人も20人も遊びに来られるんです。先生がいらっしゃるのは週に半分でも、お客さんは毎日。リビングでテレビ見たり、隣の部屋で麻雀に入り浸ったり。結果、僕は毎日接待です。お財布も私に預けっぱなしでしたし(笑)。

そうした経験が役に立ったことは。

 あります。ある時、赤坂で焼き肉をごちそうになる機会があったんです。あいさつをしてお座敷に上がる時、私はいつものように履物をそろえたのですが、主催の方が「君は私に好かれるためにそんなことをしたのか?」と聞かれました。

 自然に身に付いていたので「いいえ」と答えたところ、その後、その方は私のデビューのために多大な出資をして下さったり、その後も8年間くらい、CDを出すたびに多額の支援をして下さったりと、大切なスポンサーになって下さったのです。

デビューを諦めようと思ったことは。

 3年間くらいはがむしゃらでしたが、さすがに4年目には田舎の父からも「そろそろ帰って来い」と。

 当時、師匠が作った曲のギターを弾き、私が仮歌を歌ってカセットに入れ、レコード会社に送っていたんです。デビュー曲もその流れでした。

 当時(1987年)、翌年にソウル五輪を控え、韓国ブームに火が付き掛けてた頃。ちょうどスポンサーさんとテイチクレコードの専務が済州島によくゴルフやカジノに遊びに行っていたので、雑談の中から済州島をテーマにした曲を作ってはと、生まれた曲が『済州エアポート』。

 いつものように先生のギターと私の歌でレコード会社に送ったところ、「ところで、この曲は誰に歌わせるの?」と。まだ決まっていなかったんですね。そして「この仮歌は誰? この人でいいのでは」と、急きょ決定しました。

 同期にはWinkやX(後のXJAPAN)、香西かおりさんなど名だたるメンバーが沢山いらしたのですが、僕は有線では頭一つ出ていて、おかげさまで上半期最優秀新人賞と年間新人賞を頂きました。

韓国や済州島からは、何か反応がありましたか。

 ありました。KBS(韓国放送公社)の「海浜歌謡祭」という番組から出演オファーがありまして、「『済州エアポート』を生バンドで演(や)りたいから譜面を送って欲しい」と連絡があったんです。

 当時、日本の曲を日本語で歌ってはいけなかったので、僕は韓国語を一生懸命覚えて行ったのです。するとリハーサルの時プロデューサーのような方が、「日本で済州島のことを広めてくれている人に対して、韓国語でしか歌えないというのは失礼ではないか。自分が責任を持つから日本語で歌ってくれ」と言って下さり、戦後初めて韓国のテレビで日本語で僕の歌が流れるという、思いもかけない結果になりました。

日本での反応はいかがでしたか。

 帰国して日本でその情報を流したのですが、全然信じてもらえませんでした。後で韓国からオンエアされたビデオを送ってもらい、見せたら大変な騒ぎに。日本と韓国の小さな懸け橋になれたのかなと自負しています。

 余談ですが。当時、韓国で日本人が働くのはタブーでした。するとカジノに呼ばれて、日本人のお客さん相手のディナーショーで歌ってほしい、と。歌い終わった後カジノのチケットをもらったんです。「これで遊んでもいいし換金してもいいですよ」と4枚。1枚18万円くらいなので、総額72万円くらい。それが韓国で頂いた最初のギャラでした(笑)。

済州島へはその後、何度か行かれたのですか。

 もう3桁超えるくらい行きました。多い時は月に2、3回。済州島を日本に広めてくれた感謝碑も頂きましたし、済州島の市長さんから名誉市民賞、知事さんからは名誉島民賞も頂きました。

最新曲はどのような曲ですか。

 『男のほろり酒』は、1番と3番が男性の気持ち、2番が女性の気持ちを歌っています。今の世の中、別れるくらいなら、と相手を傷つけたりする事件などもよく聞きますが、この曲は、相手の幸せを願っての別れを歌う大人の歌謡曲。

 河島英五さんの『酒と泪と男と女』のテイストを感じさせる、聞く者がほろりとしそうな曲に仕上がっています。