環境に優しい農業めざす
東京から中山間地へ(福島県 二本松市東和地区)
「移住」の典型は、都会から田舎への転出そして就農というパターンだが、関元弘(もとひろ)さん(47)はそんな移住者の一人。平成18年、東京・北区赤羽から福島県二本松市の中山間地、東和地区に移り住み、今日まで農業と醸造を生業としてきた。
「以前から、漠然と、いつか農業を手掛けたいとは思っていたが、移住することまでは考えていなかった」と述懐する関さん。
宇都宮大学農学部(農業環境工学科)を卒業し、農林水産省に入省。その後、農水省の「市町村人事交流制度」で2年間、二本松市の旧東和町役場に派遣された。その時農家に住まい、関さんが師匠とする人から農業の手ほどきを受けた。
「師匠は、田んぼをやりながら、夏は野菜、冬は里山に入り原木シイタケ栽培を手掛けたり、ハウスで花をやっている。それぞれ住んでいる地区、エリアに応じた営農を考え出している。あくまで地域の風土に根差したもので、自然や環境に優しい農業がここにあるということが見て取れました」
そこには、関さんが大学で学んだ農業機械・農業土木理論を駆使した機械的農業も、農政が目指す規模拡大的な営農もなかった。
標高200~600㍍の東和地区。山地の多い日本では、このような中山間地域が全国の耕地面積の約4割、総農家数の約4割を占めている。東和はまさに日本の農家、農業の縮図だった。
「具体的に、何々農法でやっていこうと思ったのではないが、ここ東和での農家体験で、農業をしてみたいという気持ちが、ぐーんと出てきました」
農水省で同期入省だった夫人の奈央子さんと移住を決意、35歳の時だった。
さて、移住となると事前に情報として入れておきたいのが受け入れ先の反応。地元の人たちに邪険にされるのではないか、住んでみてから、場違いの所に来てしまったと後悔しないか――。関さんの場合、ラッキーだった。
「ここら辺の人は『こっちに来て頑張りたいやつは応援するべ』という、自然な気持ちがありますね。よそ者をいじめたりはしない、土地の人たちのまさに精神風土と言えるでしょうが、(受け入れが良くて)当初は不思議な気持ちがしました」
関さんは、師匠から聞いたということで、次のような話をしてくれた。
江戸期、天明や天保の大飢饉で、多くの死者を出した相馬藩(当地二本松藩の隣)では「入植者募集」を行い、それに応じよそから人々が荷車を引いてやって来るという大移住があった。しかし彼らは、目的地の相馬藩の領地まで行かず、「おれ、ここらでいいや」と、途中の二本松周辺で荷を解いた人たちが少なくなかった。それからもぽつぽつと移住してくる人は続いたという。
「日本人は意外と動き回っている民族ですよ。一所懸命という言葉がある一方で、いろいろな所に出掛けていって居を構えている。海外にまで足を延ばすこともあったし…。よそ者を排除するなんて、最近だけの発想です」
(人口減少問題取材班)







