米軍駐留は共産化防ぐため

世日クラブ

日本の安全保障と沖縄~スターリン・ソ連の欺瞞性と国内左派の妄想

元沖縄県副知事 牧野浩隆氏

 元沖縄県副知事の牧野浩隆氏はこのほど、世界日報の読者でつくる「世日クラブ」(会長=近藤讓良・近藤プランニングス代表取締役)で、「日本の安全保障と沖縄~スターリン・ソ連の欺瞞性と国内左派の妄想」と題し講演を行った。牧野氏は戦後、沖縄に米軍が駐留するようになったのは、米英が提案した国際的平和体制をソ連が反故にし、日本に共産化の危機が迫ったためだと強調した。以下はその要旨。

ソ連が平和条約反故

米が沖縄分離し地上権使用

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 まきの・ひろたか 昭和15(1940)年、沖縄県生まれ。大分大学経済学部卒。米カリフォルニアウェスタン大学大学院修士課程修了。琉球銀行に入行し、取締役調査部長、常任監査役などを歴任。稲嶺恵一知事時代に2期副知事就任。沖縄県立博物館・美術館館長を務める。著書に「戦後沖縄経済史」「バランスある解決を求めて―沖縄振興と基地問題」など。「再考沖縄経済」で伊波普猷賞を受賞。

 1991年にソ連が崩壊し、極秘文書が公開されるようになった。今までの日本はどちらかと言えば日米関係だけから日本の問題をとらえ、対米従属論として非難してきた。しかし、日米関係は国際政治の中にあったわけで、その国際政治の中で分からなかったソ連関連が公開されることで結論が違ってくる。私もソ連の資料を大量に集めて調べた。

 47年7月に米国は日本の占領政策を終え、そろそろ日本と平和条約を結んで日本から引き揚げようと考え、ソ連にもその締結を持ち掛けた。平和条約の第一条は領土条項で、そこには日本の領土が北海道、本州、四国、九州、その他周辺諸島となっており、琉球諸島と北方4島も含まれていた。また再軍備しないという条項もあった。ところがソ連はこの平和条約を拒否した。なぜ結ばなかったのかということが30年間分からなかったが、ソ連崩壊に伴う情報公開で初めて明らかになった。

 第1次世界大戦後の国際平和の枠組みを決めるベルサイユ条約が失敗し、第2次大戦に突入したことを受け、42年8月ルーズベルト米大統領とチャーチル英首相は改めて国際平和の枠組みとなる「大西洋憲章」を発し、そこには「領土の拡張を追求しない」や「その地域の住民の意思に反した政府を押し付けない」などが強調され、ソ連もこれに賛成した。

 ソ連は米国との国際協調体制の確約の証としてコミンテルン(共産主義の国際団体)を解散。一方の米国は、対ドイツ戦を援助するためソ連に110億ドル相当の武器貸与をした。当時、米国が世界で武器援助した総額が500億ドルだったので、ソ連だけで全体の20%以上になる。また「ノルマンディー上陸作戦」と呼ばれる作戦でソ連と共にドイツを挟み撃ちにし、スターリンから感謝された。

 戦後構想を話し合った米英ソによるヤルタ会談でもソ連は国際協調体制を約束した。しかし、ソ連は15カ国と結んでいた国際条約のうち14カ国とのものを自分勝手に反故にしていることが実証しているように、ソ連の国際協調確約は偽りであった。

 日本との関係でいえば、両国間の「日ソ中立条約」は1946年4月まで有効であるにもかかわらず、2月のヤルタ会談で対日参戦の密約を交わし、7月には終戦の仲介依頼をもてあそび、8月8日、意表をついて対日攻撃を開始した。日本のポツダム宣言受諾による9月2日の降伏調印後も北方4島の軍事攻撃を継続し、サハリン州へ不法編入してしまった。

 46年2月、スターリンは「第3次大戦がまた起こる。資本主義が存在する限り戦争は不可避だ。我々は米との第3次大戦に備え軍事力を強化していく」と演説し自らの正体を明らかにした。米英はソ連に騙されたことに気づき、対ソ封じ込め政策に入っていった。

 米はこのような状況で日本と平和条約を結び、日本から引き揚げればソ連の思う壺だと考え、日本の安全保障問題をしばらく国際政治の状況によって考え、とりあえず条約締結を延期した。その時、朝鮮戦争が勃発した。

 トルーマン米大統領は北が南を侵攻した国連憲章違反だとして安保理決議を3回行い、北に対し攻撃中断と北緯38度線以北に戻るよう求めたが、北はこれを無視し攻撃し続けた。

 ところでソ連は北朝鮮を支持したのに、国連軍が北朝鮮を攻撃するための根拠となった安保理決議に欠席し、その結果可決させてしまった理由が長い間、不可解とされてきた。しかし、それは米国をわざと朝鮮戦争に引き込んで軍事力を消耗させ、国力を弱体化させるのが狙いだったことが分かった。

 トルーマン大統領はスターリンに「国際協調に従って元に戻すため、ソ連は北と中国を説得してほしい」と通告したが、スターリンの返信は「南が北に攻め入ってきたので南が悪いし、そもそも南と北の内戦だから干渉する必要はない」というものだった。トルーマン大統領は、国連軍がもし負けるようなことになれば誰も侵略者を止めることができなくなり、世界は無法地帯になると自由主義諸国へ訴えた。

 一方、日本は45年10月、米による日本への5大指令に基づき、結社・言論の自由などが認められたことで政党が復活し、共産党も服役中だった人たちが解放され勢いを増した。46年1月に「凱旋帰国」した野坂参三は、帰国前にスターリンと会って自筆のA4用紙4枚からなる日本の革命計画を提出し、ソ連のスパイとなっていた。

 49年12月、コミンテルン172号は日本の革命指令を日本共産党に下して暴力革命を進めていき、50年1月には中ソ両共産党から躊躇することなく武装革命に突進するよう激が発された。52年の血のメーデー事件、枚方・吹田事件、大須事件など共産党による事件が多発した。日本国内はそういう状況になり、国外でも朝鮮戦争をきっかけにソ連が日本に革命を起こそうとしていた。米英は日本を今のまま放っておいたら共産勢力下に陥りかねないと考え、東アジアの非共産化地域を強化していくことになった。

 日本と平和条約を結べば、米軍は日本から引き揚げなければならなかったので、日本を独立させた後に安全保障条約を結び、なおかつ政権交代しても大丈夫なように沖縄に米軍が常に駐留できるようにする必要があった。

 そのためダレス国務長官は沖縄を日本から分離し、領土として所有権は日本が持ちながらも地上権を米国が使用するという「潜在主権」という概念を適用した。こうすれば日米安保条約に基づく非核三原則の対象となることもなく、基地の自由使用が可能になった。

 日本では平和条約をめぐりソ連や中国を除く多数講和か、それとも中ソを含む全面講和か論争が起きた。

 対日講和問題に関して言えば、ソ連は対日講和会議において講和条約内容は「戦争のための条約」であると痛烈に批判して調印を拒否したため、左派系の進歩的知識人が主張した「全面講和」は不可能となった。しかし、進歩的知識人はこうしたソ連の欺瞞性を黙して語らず、あたかも日本側が全面講和を拒否したかのように政府批判の論拠とした。

 ソ連、中国を除いた自由民主主義諸国との「多数講和」は戦争を引き起こす事態になると論じ、その対抗策として「平和教育」に乗り出し、日教組の講師団として「教師の倫理綱領」起草の中心となった。

 「教え子を再び戦争に送るな」というスローガンが脚光を浴びたが、その隠された狙いは、教育の場で戦争の原因となる資本主義体制の打倒を目指した戦士を育成することにあった。国民の教育権に関する日教組と文部科学省との確執、さらには、階級闘争史観に基づいた教科書が物議を醸したことを決して軽視してはならないであろう。

 先般、安全保障関連法案に反対するデモ集会でも、同じスローガンを掲げたプラカードが散見された。

 内的には国内の革命計画、外的にはソ連の日本革命計画があったため、日本が独立するに当たり安全保障をめぐり米国は良識に従って安保条約を結び、自由使用可能な沖縄基地を作った。一部では日本が米国に従属しているという主張もあるが、むしろ米国は日本の救世主だったのではないか。あの時、米国が日本から撤退していたら日本は間違いなくおかしな形になっていた。

 沖縄には在日米軍の74%が集中するため多すぎるという声がある。沖縄に来て反対している左派は沖縄のために活動しているように見えるが、そもそも彼らの「先達」が沖縄米軍駐留の原因を作った。

 病気も対症療法では駄目で、本当の原因が分からない限り治癒できないのと同じように上記の歴史的事実を明確に認識して対応していかない限り、国民の健全な国家観や安全保障観、さらには、沖縄基地問題は根本的に解決できないであろう。